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2006.04.15

ひろきのいたずら(つづきのつづきのつづき)

私は、何度も何度もビデオをスイッチを入れたり消したりを繰り返しました。二度あることは三度あると言うし、三度目の正直ってのもあるし、また大輝が映ることを期待してのものでした。

そして、悲しい事実を発見してしまいました。
原因はわからないのですが、そのバグテープを入れたときのみ、直前に再生していた画像が機械内にしばらくの間メモリーされ、バグテープの画面の左三分の二に画像として映るのです。
これで私は、自分の映したい画像を、不思議な画像として映そうと思えば映すことの出来る方法を知ってしまったのです。
プリンタでの印刷を失敗した件は、インク切れぎりぎりでちゃんとカートリッジが正確にインクジェット出来なかったのがどうやら原因のようです。

柩らしい画像は、実は柩でばありませんでした。つくしんぼの活動を再開して、葬式のときの花を有効利用してやったフラワーアレンジメントのときの映像に、そっくりなものを見つけました。
ステップワゴン内の大輝の後ろ姿の映っているテープも出てきました。
それぞれ、M職員がテープチェックをしたときに、直前に再生した瞬間の画像だったのでしょう。だから、バグテープに映った……。

私はすっかりショボンとしてしまいました。てっきり大輝がやってきて、みんなにいたずらを仕掛けていると確信していたからです。私には霊的なものは見えないから、画像でわかりやすく存在を証明してくれているんだ、と……。

科学的に解明しようと思えば出来ることって、たくさんあると思うんです。
でも、それだけとは言いきれないことも、いっぱいあるような気がしています。
科学の中には、偶然という言葉で処理してしまうことが多過ぎます。

フラッシュをたいて撮影した写真です。レンズと光の関係でオーブが映る可能性はいくらでもあります。
でも、なんで死んだ日に着ていた服装の写真にだけはっきり写ってるの?
ビデオの件は、パソコンとデジタルビデオを繋いでデータ交換した際に起こったバグなんだと思います。
でも、なんで大輝の死んだ日に映したお別れ会のビデオがバグるの? 他のビデオテープはなんともないのに。
映ったのが、なんで大輝の柩(のように見える画像)なの? 次の日はなんで大輝の後ろ姿なの? たくさんのテープに他の子どもたちだっていっぱい映っているというのに。

単に偶然がいくつか重なっただけなのかも知れません。
でも、やっぱり重なり過ぎです。こんなに偶然って重なるもんじゃありません。

「ほら、ぼくはここにちゃんといるんだよ……」
やっぱり大輝がいたずらしに来てたんだと、私はそう思うことにしました。

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コメント

やっぱり、それはおやじさんがいうように、ひろきのいたずらだと思う。

 それはその通りだと思います。
 目に見えない大輝くんの意思が、目に見える物理法則を使って、レインボーおやじさんに合図したのでしょう。
 現象自体が科学的に説明できるかどうかは問題ではありません。
 なぜそんな現象が起きたのかということです。
 
 端から見れば“単なる偶然”でも、「意味のある偶然」というのがあって、そこにどんな意味を見つけるかということが大事なのだと思います。
 この記事も、大輝くんはにこにこしながら見ているのでしょうね。
 

偉そうなこといっちゃいますが、大事なのは原因がこうだった、ということじゃなくて、レインボーおやじさんが大輝くんの存在を感じた、ということじゃないかな。

レインボーおやじさんの中で大輝くんはずっと生き続けていける。
大輝くんに触れることはできないけど、思い続けることはできる。
そうすれば、今度みたいにまたひょっこり顔をだしてくれるかも。

偶然でも何かの現象でもない、レインボーおやじさんの思いが今回の出来事を生んだんですよ、きっと。

楽しく読ませていただきました!
大輝さんを感じる事が出来る出来事でしたね。

こういう偶然ならば、たまにはあっても
良いのではないかと思います。
残されたものにも、強い思念がありますから、
大輝さんを感じたかったのかもしれませんね!

不思議な現象の理由がどういうことであっても、その時、その画像が、おやじ様や縁ある方々の前で起こったとうことに意味があるのではないかしら…?と思います。

ですから、これはきっと大輝さんと関係のある素敵な偶然だったんだと思いますよ。

初めてコメントします。
大阪の某市親の会を通じてこのブログとカンパを募集していることを知りました。

本を拝読して些少ですが親の会を通じてカンパをすることにしました。

そして今日このブログを見て柳田邦男さんの「犠牲(サクリファイス)—わが息子・脳死の11日」を思い出しました。
柳田さんがご子息を亡くされて初めて帰宅したときにテレビでタルコフスキー監督の「サクリファイス」が放映され、バッハのマタイ受難曲のアリアが流れるくだりです。
それはご子息の生命をかけた悩みを表す映画であり、もっとも深く思いを寄せていた音楽であったそうです。

なんという偶然!シンクロニシティ!

柳田さんの涙とあなた様の涙が私の中で重なりました。

柳田さんがご子息がなくなられた後、この本を出版することでご子息の永遠の存在を示し、またご自身にとっても一つのグリーフワークを果たされました。
あなた様にも映画を作ることでご子息の唯一無二の絶対的な永遠の存在を示し、ご自身にとってのグリーフワークを果たされたらいいな・・・と思います。
そのためのお手伝い・・・私にはカンパをすることしかできませんが、させていただきたいと思います。

どうかおからだにきをつけて「グリーフワーク」を果たされますように。
何年かかっても応援したいと思います。

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