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「やましたひろきくんの置き手紙」

【7/3 記】

体調悪化で執筆意欲がどうにも。。。(>_<)
集中力ない時に無理して書くとまともな文章にならないので、続きはしばらくお休み、ということで。m(__)m
復活は秋かなあ。。。

 

《もくじ》
#01 はじめに
#02 思い起こし(前)
#03 思い起こし(後)
#04 四月になって
#05 ホームページ公開
#06 四十九日まで 

#07 ぼくうみヒストリー(予定)

 

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#1 はじめに

 大変ご無沙汰しています。
 拙著『おさんぽいってもいいよぉ~ 自閉症児ヒロキ歩んだ15年』をぶどう社の社長だった市毛研一郎さん(故人)にお願いし、無理くり出版して頂いたのが2009年のこと。「断れないよなあ」と言ってくださった時の市毛さんの笑顔を、今でも忘れません。
 実はヒロキの事故の直後、2006年の夏あたりから書き始めてはいたのですが、途中でどうにも書き進めなくなってしまい、映画制作と同様、2年以上かかってやっと書き上げることの出来たエッセイ(なのかな?)でした。
 それ以来なので、小説や脚本以外の文章を書くのは15年近くぶりということになります。ブログやFacebookには少しばかり何か書いていますけど、あれは文章というより落書きに近いものなので……。

 

 気がつけば私ももう60歳。還暦です。
 時が経つのは本当に早いです。歳を取れば取るほど、加速度を増して時間が過ぎ去って行くように感じます。


 『おさんぽ…』の本の中で、私は次のように書いています。

 とりあえず自分の人生を60年と刻んで、最初の15年は子どもだった時代で、次の青春時代(?)の15年を好き放題過ごしてきて、次の父親としての15年をヒロキとともに歩んできて……。
 で、45歳の私は? 残った4分の1の15年、これからの15年をどう生きていけばいいのだろう?

 

 その、残りの15年、が過ぎ去ってしまった計算になります。
 人生をとりあえず60年、と刻んでみたわけですから、今年あたりには区切りとなる文章を書いておかなければ……。
 ということで、書き始めてみることにしました。

 

 ウチの長男の名前は山下大輝です。
 この名前をネットで検索すると、少し前まではウチのヒロキに関しての内容しか出て来なかったのですが……。
 今は状況が違います。検索して出て来るのは、すっかり売れっ子声優に成長した山下大輝君の記事ばかりです。ちなみに、彼の場合、「ヒロキ君」ではなく「ダイキ君」です。
 1989年(平成元年)生まれとのことなので、ヒロキより1歳年上。誕生日が9月7日ということで、次男のアツヤと一緒だったりしています。
 私は今後、アニメの脚本を書く機会はないと思うので、彼と仕事をすることもないでしょう。でも、名前といい誕生日といい、なんか妙に縁があるように感じています。一方的に、ですけど。

 

 この文章を書き始めるにあたって、タイトルを考えました。
 最初は『おさんぽいってもいいよぉ~・その後』でいいかな、と思ったですが、『ぼくはうみがみたくなりました・その後』に続き、また『その後』というのも芸がないので、変えてみることにしました。
 『やましたひろきくんの置き手紙』にします。
 理由は……とくにありません。なんとなくです。ボーッとしてたら、なんとなく浮かんできただけです。
 ダイキ君でなくヒロキ君だ、って言いたいのかも知れません。

 

 慌てず騒がず、でも60歳のうちには書き上げたいと思っています。なるべく、ですけど。
 書籍化するつもりはありません。今回はクラウドファンディングも自費出版もしないと思います。
 『おさんぽ…』を読んでくださった方々へのお礼として、続編のような感じで、少しずつ書き綴っていけたら、と思っています。

 

 まずは15年間分の時間を巻き戻すところから始めます。
 お暇な方、お付き合い頂けたら幸いです。
 忙しい方、少し手を止めて、お付き合い願えたら嬉しいです。

 

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#2 思い起こし(前)

 以下の文章は、拙著『おさんぽいってもいいよぉ 自閉症児ヒロキと歩んだ15年』(ぶどう社刊)の94~99ページからの引用です。

 

2006年3月28日
 今にも雨が落ちてきそうな雲ゆきの、火曜日の朝のことでした。
 この日もヒロキは、「おさんぽいっていいよぉ~」の合いことばを繰り返し、一人での外出をお母サンに要求していました。でも、今日はとりあえずダメです。つくしんぼでの毎年度末の恒例行事、お楽しみ会のイベントがある日だからです。スケジュールボードにも書いてあるのだから、約束です。
 10日前には、中学校の卒業式を無事終えていました。幼稚園の卒園式のときはもちろん、小学校の卒業式もまともに参加できなかったヒロキでしたが、今度は立派でした。校長先生に名前を呼ばれ、ちゃんと壇上で卒業証書を受け取ることができました。
 4月からは町田養護学校の高等部に進学です。「今度はどこへ行くの?」と質問すると「まちだよーごがっこー」と答え、「バス」と言うので、バスに乗って新しい学校に通うことは理解しているようでした。路線バスではなく、通学バスで行くことまでは知らなかったと思いますが……。
 お楽しみ会は午前10時から。場所はご近所、つくし野センターのホール。つくしんぼに通う親子と職員とボランティアのメンバーが集まり、1年間の活動をまとめたビデオを観て、椅子とりゲームで遊び、花いちもんめを楽しみ……一番最後にヒロキは、みんなから卒業おめでとうの花束をもらいました。
 お昼は、全員で近所の和食のファミリーレストランに移動しての食事会。ヒロキは大好物というか、ワンパターンの「カレーライス」と「スパゲティー」を主張していましたが、残念ながらメニューになく、カレーうどんとフライドチキンとフライドポテトを食べ、オレンジジュースを飲みました。
 解散して、帰宅したときには午後3時を過ぎていました。
 ヒロキはやはり「おさんぽいっていいよぉ~」と主張し続けていました。
 天気予報では夕刻から雨。お母サンはあまり行かせたくなかったのですが、スケジュールボードに「おさんぽ」と書いてしまっていたこともあり、散歩のときの決まりごとになっているGPSで位置探索のできる携帯と「障がいをもっています」の名札カードを首から提げさせました。
 ヒロキは、門を出たところで立ち止まり、右に行こうか左に行こうか少し考え、それから左へと駆けだして行き、さらに左のつくし野方面へ曲がって行ったとのこと。そんな嬉しそうな後ろ姿……お母サンがヒロキを見る最後になりました。
 私はというと、帰宅後はパソコンに向かい、新規に立ち上げる予定のサイト『ぼくはうみがみたくなりました制作準備実行委員会ホームページ』の作成作業を進めていました。
 それからしばらくして、バイクでPCショップへ出かけました。なにを買いに行ったのかは覚えていません。結局なにも買わずに、店を出たのが午後5時過ぎ。ポツポツと雨が落ちてきていました。
 もうすぐ暗くなるし、本格的に雨が降ってきたら面倒だなぁ、と思いつつ、私は携帯でヒロキの居場所をチェックしました。
 町田の繁華街の少し手前、町田街道沿いのセブンイレブン付近に、存在位置を示す星印が点滅しています。自宅から4km近くある場所です。
 「またこんな遠くまで歩いて行ってやがって……」その瞬間に私は、このまま迎えに行った方がいいかな、と思ったことを覚えています。でも、ヒロキ用のヘルメットを持ってきてないし、もう暖かいので少しぐらい雨に濡れても風邪はひかないだろうと考え、帰宅してしまいました。
 同じ頃、お母サンもGPS検索をしており、そのときはJRの線路沿いを歩いていたとのこと。今思うと、それが線路沿いの道だったのか、線路上だったのかはわかりません。
 自宅に戻り、映画製作への応援をお願いするメールを書いていると、電話が鳴り、お母サンが出ました。ふと、自分への電話のような気がして、私は椅子から立ち上がりました。でも、お母サンの様子を見ると、とくに私は関係ないような雰囲気です。ついでなので、私はそのままトイレに入ろうとしました。そしたら、お母サンが私を引きとめました。
 「電車に接触……」
 「心肺停止状態……」
 「病院に搬送中……」
 お母さんは、相手のことばを復唱するかたちで、私に伝えてくれました。
 その瞬間、私は思いました。
 ……終わった。
 すべてが終わってしまった、と……。
 次男の夕食をおばあちゃんにまかせ、私とお母サンは車で町田市民病院へ向かいました。ヒロキが産まれた場所でもある病院です。夕方のせいか、道がとっても混んでいて、裏通りを使っても30分近くかかりました。運転している間、私は「覚悟しよう、覚悟しなきゃ」ということばをくり返しつぶやいていたようです。
 一縷の望みも……担当医師の最初の一言が、こっぱ微塵に吹き飛ばしてくれました。
 本人確認は、私一人でしました。お母サンは、見ることができませんでした。
 ベッドに寝かされていたのは、間違いなくヒロキでした。想像とは異なり、外傷があるようには見えませんでした。ちょっと笑顔を見せているような感じで、静かに横たわっていました。
 致命傷は頭部にありました。右後頭部に穴が空いていました。私はよく、自閉症の頭のなかを見てみたい、と冗談のように言っていたのですが、私の見たヒロキの頭のなかは、からっぽでなにもなく、見えたのは頭蓋骨の裏側の壁だけでした。
 即死だったんだな……。
 痛みを感じる余裕もなかったろうな……。
 苦しまなかっただろうな……。
 私とお母サンは、警察署の方に呼ばれました。
 「15歳で自閉症なら、自殺ですね」
 担当者には自閉症の知識などまったくなく、トンチンカンな話を平然と口にしてくれます。私がブチ切れて食ってかかろうとするのを、止めてくれたのはお母サンでした。
 時間が遅くなってしまい、市民病院では死亡診断書を出せないとのことで、ヒロキは民間のクリニックに移されることになりました。自宅の近所の、坂道の途中にある個人医院です。
 待っている間、私は電話をかけまくっていました。市民病院にいたときから、時間さえあれば携帯で誰かに電話をしていました。誰にかけ、なにをどう喋ったのかは、全然覚えていません。
 注文もしていないはずなのに、ヒロキは棺桶に入れられて出てきました。
 「ご遺体はどこへ?……」
 搬送をお仕事にされている人が、私に訊いてきました。
 そんなこと、突然言われても……。
 だって、ヒロキはついさっきまで生きていたんだから……。
 結局、私の口から出たのは、「つくしんぼ」という名前でした。
 ヒロキが一番好きな場所であり、ヒロキのためにつくった場所だからです。
 つくしんぼに戻ったときには、午後10時を回っていました。
 大勢の仲間、ヒロキと親しい人たちが待っていてくれていました。ほんと、嬉しかったです。ありがたかったです。
 ただいま、って、ヒロキの代わりに私が呟きました。
 その夜、ブログにヒロキの事故のことを書きました。ここに書いておけば、誰かが読んでくれて、誰かに伝えてくれると思って……。
 それからあとのことは、ほとんど記憶に残っていません。私の頭のなかには、今でも数日間の〈空白〉が残っているだけだったりしています。

 

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#3 思い起こし(後)

 以下の文章は、拙著『おさんぽいってもいいよぉ 自閉症児ヒロキと歩んだ15年』(ぶどう社刊)の108~113ページからの引用です。

 

おさんぽいってもいいよぉ~
 4月1日が通夜、2日が告別式でした。
 火葬場と住職の都合で、事故から3日もあいてしまいました。
 その間のつくしんぼには、ヒロキと私たち家族以外にも、常に10人以上のヒロキの仲間たちが一緒に寝泊まりしてくれていました。
 私はというと……いろいろな仕事をきっちりこなしていたようです。
 ようです、というのは、この期間の記憶がほんとにほとんどないからです。事故から数日間、まったく寝ていなかったらしいのですが、そのことさえよく覚えていません。
 私の頭のなかにあったのは、早くきっちりと葬儀を終わらせて楽になりたい、という思いだけでした。そのためには機械になってしまうこと。感情なんか入れたら、頭がどうかなってしまうかもしれない……。
 ヒロキの葬儀には、のべ千人をこえる方々がいらしてくださいました。狭いつくしんぼとその周辺の道は大混雑。ご近所のみなさんにも迷惑をかけてしまいました。
 初七日までの法要を済ませ、ようやく家に帰ってからは……なにもない、ひたすら空白の日々が続きました。あるのは、津波にように、余震のように、間を置いてはくり返し押し寄せてくる悲しみだけ……。
 耐えることはしませんでした。ただただ泣きました。
 納骨はしないことにしました。ヒロキの部屋に置くことにしました。まだ15歳。自分たちが死ぬまで、頑張ってなんとかし続けなければならないと覚悟を決めていた子です。そんな簡単に手元から放す気になどなれっこありません。なので、ようやく体が動き始めてから最初にやったことは、ほとんど倉庫状態だったヒロキの部屋の掃除でした。
 三人家族になってしまった、という実感はまったくありませんでした。ヒロキはどこかへ長期のお泊まりに出かけているだけ。そのうち帰ってくるような、そんな感覚……。
 事故現場に対しての思いは、私とお母サンはまったく逆でした。お母サンは、事故現場とそのすぐ上を渡る町田街道の陸橋に、1ヶ月以上近づくこともできませんでした。
 私は、数日後には訪れていました。
 雲ひとつない日でした。人通りのほとんどない坂の途中にあるせまいその踏切に、私はバイクで一人、思い切って行ってみました。ちょうど、幼稚園か保育園の散歩途中の園児20人ほどが、保育士さんたちに連れられて踏切を渡っているところでした。
 踏切から事故現場である陸橋の真下あたりまでは、約300メートルの直線。その先で線路は右へ急カーブしています。
 その踏切の真んなかにぼんやり立ってみて、ふと思い出しました。小学生だった頃、まだ単線だった頃、ここから次の踏切までの間の線路の上を歩いて遊ぶのが好きだったっけ。電車が接近すると、慌てて線路脇の沼地に逃げ込んで泥だらけになったっけ。あのスタンドバイミーの映画のように……。
 警報が鳴り出し、遮断機が降り、私は踏切のすぐそばで、ものすごい勢いで通過して行く電車を見ました。
 それからまた開いた踏切に入り、通り過ぎた電車の最後部を眺めたとき、わかったことがありました。間違いありません。
 そう、ヒロキはちゃんと電車をちゃんと避けていたのです。電車に轢かれたのではなく、電車とほんの少し接触してしまっただけなのです。ちゃんと避けたつもりでいたものの、電車の車両の幅が線路の幅の3倍以上もあることまでは知らなかったんだと思います。線路からかなり避けているにもかかわらず、ヒロキは車両の角に後頭部をぶつけてしまったのです。
 あと10センチ余計に避けてくれていれば……。
 車だったら、このぐらい避けておけば、逆に車の方が避けてくれるのに……。
 一人で散歩なんかさせなければ事故にあわなかったのに、と言われたりもしました。
 たしかにそうかもしれません。でも、私たち夫婦は、ヒロキを散歩に出していたこと、それほど後悔はしていません。
 だって、ヒロキの一番の楽しみは、〈おさんぽ〉だったのですから。
 知的にも重度の自閉症だったヒロキです。中学生になっても一人での登下校は難しく、親が送迎していました。だけど、いつか一人で歩けるようになって欲しい。そう思ったからこそ、親である私たち夫婦は、バスで通う遠くの養護学校ではなく、地元の小中学校を選んだのです。
 そして、長年の親子での散歩の積み重ねがあったからこそ、少なくとも車の危険性だけは理解できるようになり、信号も横断歩道も渡れるようになったのです。
 「障がいをもってます」の名札をストラップにしたGPS機能つきの携帯は、ヒロキにとっての印籠でした。一人で散歩に出るといつも怒られてばかりいたのに、これをちゃんと首にかけていれば、親は自分の一人での散歩を許してくれる。
 「おさんぽいってもいいよぉ~?」と質問して、お母サンが「おさんぽいってもいいよぉ~」と言ってくれれば、行きたい場所に自由に行ってもいい。幼稚園児ぐらいになればあたりまえに許されることを、ヒロキは中学生になってやっと許してもらえたのです。
 了解をもらえた瞬間の、あの嬉しそうな顔。家に帰ってきたときの、あの満足そうな顔。そんなヒロキの表情が、今でも私の目の裏にはそのまま焼きついています。
 後悔があるとしたら……自閉症の特性の理解が足りなかったこと、です。
 ヒロキの事故後に、リキ・リンコさんの著書を読んで、ハッとさせられました。
 「電柱にのぼってはいけない」と聞いても、屋根や木や崖にのぼってはいけないとは思いつかなかった。屋根や木や崖が高いことは知っていたが、電柱も屋根も高い木も高い崖もどれも〈高いところ〉であるとは考えなかったし、「高いところには、のぼってはいけないらしい」とも考えなかった……。
 翻訳家として仕事を立派にこなすアスペルガー症候群の彼女です。そんな彼女でさえ、幼少時代の認知度がこのレベルだったとしたら……。
 中三のときに受けた検査の診断書の医学的総合判定の欄には「重度の自閉症状を伴う精神遅滞」と記載されています。3歳9ヶ月のレベルだとも言われました。そんなヒロキのレベルでは、たとえ道路を走る車が危険であることを知っていても、線路を走る電車が危険だとは思わなかったのかも……。
 教えておけばよかったです。電車が危ないこと。踏切が危ないこと。線路は危ないから歩いてはいけないこと。そのひとつひとつを……。
 ヒロキがいなくなってからの、私にとっての一番の苦痛は、つくしんぼの活動を続けなければならないことでした。
 つくしんぼ自体はなにも変わっていません。それまでと同じように、毎日、障がいをもつ子どもたちがきては遊んでいます。
 ただひとつ変わったのは、もうヒロキがこない、ということ。
 ヒロキのためにつくった場所に、ヒロキだけがいない……。
 そう思うだけで、子どもたちが遊んでいる姿を見ているだけで、心が張り裂けそうになり、自宅へと逃げ帰ったことが何度もありました。
 本当はやめたかった。でも、やめられませんでした。
 NPO法人化のための申請を、ヒロキの事故の直前に出していました。で、認可されたのが、事故の直後。ヒロキがいなくなるってわかっていれば、法人化の申請なんかしなかったのに……。
 それでも、なんとか踏ん張って続けることができたのは、ささえてくれる仲間の存在があったからです。つくしんぼの仲間、学校の仲間、町田おやじの会の仲間、福祉関係の仲間、パソコン通信時代からのネットの仲間……。
 なんかすごいな、と思いました。みんなみんな、ヒロキがつくった仲間だからです。
 ヒロキの事故の日から、さかのぼること半年。2005年の10月。つくしんぼは盛大なる10周年の記念パーティーを開きました。
 本当は、活動を開始してからまだ9年半目だったのですけど、なぜか10周年を祝ってしまおうということになりました。四捨五入で10年ということで、まぁいいか、と。
 だから、パーティーの参加者全員で撮った記念の集合写真の中心には、中学三年生のヒロキと私が並んで写っています。
 10周年、1年早くやって、本当によかったです。
 だって、次の年には、もうヒロキはいなかったのですから……。

 

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#4 四月になって

 事故の起こった3月28日から葬儀が完了した4月2日までのことは『おさんぽ…』の本の中で書いたように、ほとんど記憶にありません。
 葬儀の日を待つまでの3日間、私は、ヒロキの遺体と一緒につくしんぼにいて、何人もの方が弔問に来てくれていたはずなのですけど、ごめんなさい、誰が来てくれたのかを全然覚えていないのです。機械的に挨拶していただけのような気がします。
 通夜と葬儀を行った2日間も、機械的かつ事務的に動いていただけ。いくつかの断片的な記憶が残っているだけです。
 頭の中は、もし自分が途中で壊れてしまったらどうしよう、いう心配だけでいっぱいいっぱいでした。
 記憶……事故の直後でさえなかったのですから、還暦を迎えてしまった15年後の今、当然あるはずもありません。
 それでも少しだけ記憶を辿ることが出来ます。
 当時のブログが残っているからです。
 私は律儀に毎日ブログを更新していたのです。ブログを書いた記憶は残っていないのですが……。
 ブログを更新するという作業に、私は心の安定を求めていたんだと思います。

 

 告別式の翌日、4月3日のブログには、私が自分で書いて自分で読んだ挨拶文を載せていました。

遺族代表挨拶
 本日は、お忙しい中にもかかわらず、長男大輝のためにご会葬下さいまして、誠にありがとうございました。
 大輝は、重度の自閉症という障害をもっていたにもかかわらず、すみれ教室・光幼稚園・南つくし野小学校五組・つくし野中学校I組と、周囲の皆さんの温かさに囲まれて成長し、つい先日中学校の卒業式を無事終えさせて貰ったばかりでした。
 大輝は、大輝という名の通り、本当に大きく輝く存在でした。
 この場所・つくしんぼを創ったのも大輝です。両親である私達を動かし、この指とまれをさせてみんなを集め、10年経った今、大輝はこの場所にこれだけの人たちを集めるだけの輝きをもつ存在になっていました。
 大輝が生まれて15年。私達両親にとって、あっという間の15年だったように気がします。それだけに大輝の人生もたった15年というように思えてしまったりします。
 だけど、大輝の一生という輝きは15年の月日に収まりきらないほどの光と優しさと温かさを周囲に与えてくれたと、親馬鹿ですが、今はそう思っています。
 散歩が大好きで、その散歩の最中、線路に入りこんでしまった大輝です。それについて、今はもう何かを言うつもりもありません。ただ言えることは、もしかしたら大輝はずっと散歩を続けたかったのかな、ということです。
 散歩好きなので、そう簡単に天国の階段を登ってってはくれないかなとも思います。「よそのうち入らない」っていういつもの言葉を言いながら、みなさんのおうちに立ち寄るような気がしています。でも、それが大輝らしさなんです。あっちに行ったりこっちに行ったりするけれど、もういいかなと思った時にはダッシュで天国まで駆け上がりますから、心配しなくて大丈夫です。
 6月か7月に、ここ、つくしんぼは、NPO法人はらっぱとして再スタートをします。つくしんぼは、はらっぱの一事業となります。さらに、はらっぱには、つくしんぼをはじめに他にもいろいろな植物が芽を出し、成長するのかなと思ってます。
 そして大輝は、はらっぱの植物たちを応援する輝く太陽のような温かい存在として、いつもみんなを照らし、いつも一緒にいてくれるんじゃないかと思っています。
 大輝はずっとみんなと一緒です。
 本日は皆さん、本当にありがとうございました。

 

 そしてその翌日、4月4日には、ヒロキの同級生だった女の子が告別式で読んでくれた言葉を載せていました。

 桜が満開のこの時、ヒロキ君は今、神様と「な~あに?」っとお話しているでしょう。
 ヒロキ君は、きっと大好きなお散歩をしていたんだよね。
 そして天国へ行ってしまったヒロキ君。
 私達といつも一緒だったね。歌をうたったね。太鼓を叩いたね。お勉強もしたよね。笑いながらアルプス一万じゃくもしたね。ディズニーランドへも行って、一緒にのりものにのったね。
 ヒロキ君の大きな目はいつもピカピカと輝いてたよね。
 ヒロキ、天国で私達を見守っていてね!! 
 私達もヒロキの事は一生忘れません。
 ヒロキの分も一生懸命生きるからね。

 

 そしてそして……。
 さらにその翌日、4月5日のブログに、私は映画をつくる宣言をしていました。

映画を作ります
 まだまだ精神的にも落ち着いたとは言えない状態なのですが……。
 「ぼくはうみがみたくなりました」を映画にすることだけは決めました。
 自主制作映画になると思います。
 2月半ばから発表のためのホームページづくりをコツコツと続けてきており、自閉症関係、障害児者関係のいろいろな方々に相談をしてきていました。
 そのホームページを正式公開させて頂きます。こちらです。
 http://homepage2.nifty.com/bokuumi/
 (※注:旧アドレス。現アドレスはhttp://bokuumi.com)

 正直なとこ、今までの気持ちは「出来れば映画にしてみたい」のレベルでした。
 でも長男の死から一週間、私の気持ちが「映画にしなければならない」に変化してきているのを感じています。

 私は、根っからの脚本家みたいです。
 だけど、長男が障害児だったとわかってから、脚本家業界をやめました。
 施設を立ち上げ、福祉の業界へ入ってきました。
 そのことに後悔はまったくありません。
 それどころか、この道を選ばせてくれた長男に感謝しています。
 でもやっぱり、脚本家根性はくすぶっているわけで……。

 1日24時間、1年365日、長男中心に私と嫁さんの時間は動いていました。
 でも、これからは否応なくそれが変わることになります。
 「お父さん、ぼくのために15年、いろいろしてくれてありがとう。だけど、もうぼくはだいじょうぶだから。お父さんはお父さんのやりたいことをやってね」
 長男が、そう言ってくれているような気がします。

 みなさんにお願いです。
 「ぼくうみ映画化のためのホームページ」の存在をどんどん営業して欲しいのです。
 HPに、掲示板に、ブログに、ネット上でどんどん広めてって欲しいのです。
 裾野が広がれば、1万円をカンパしてくださる方も増えると思うのです。
 お金さえ集まれば、映画はつくれます。制作のノウハウはなんとでもなります。
 なにより、脚本には自信があります。
 …って、これから本格的に書くんですけど。(^^;

 

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#5 ホームページ公開

 「事故の日の1週間後に映画制作の発表だなんて……」
 少し経ってから、多くの方々に「早過ぎるのでは?」と言われました。ネット経由では非難の意見も受けました。
 そうですよね。早過ぎますよね。
 あとで振り返って、たしかに私もそう思いました。つくしんぼでの葬儀をなんとか乗り越えて、わずか4日後ですもんね。
 でも……。
 あとの祭りです。
 私は4月5日にブログに書いてしまいました。
 意図的だったのか、無意識のうちに書いてしまっていたのか……。
 それすらよく覚えていません。
 たぶん、無意識下で自己保身能力が働いたんだと思います。

 

 事故の日と葬儀の日の間のことだったような気がします。弔問に来てくれた誰かに向かって言った妻の言葉を覚えています。
「私は大丈夫だけど、お父さんが壊れちゃいそう……」
 実際、私が格闘しなければならない相手は私自身でした。
 崩れ落ちそうな自分。気が狂いそうな自分。どうすれば正気を維持出来るのか……。
 答えはありませんでした。
 とにかく、まずは目の前に迫る〈やらなければならないこと〉をやるだけ。葬儀をきっちり終わらせることだけに集中しました。
 気持ちは封印していました。泣き崩れてたりしていたら、感情の起伏が津波のように膨れ上がり、それこそ私自身の精神が崩壊してしまう。それだけはなんとしてでも避けたい……。
 ブログを書くことも、私にとって、毎日やらなければならないことのひとつでした。自閉症の人が安定したい時と同じ。ルーティンを守りたくて、日々のブログを、事故の当日も含めて、絶対に休まず書き続けていたように思います。
 そして、やらなければならないことをやろう、という思いが、ブログでの映画制作の発表に繋がってしまったような気がします。たぶん。
 なにしろ私は、ヒロキの事故の直前の頃、1月から3月にかけて、つくしんぼの運営などそっちのけで、〈映画をつくるにはどうすればいいのか〉ばかりを考えていたのですから。

 

 年末の忘年会か年始の新年会か、どちらだったのか忘れましたが、「町田おやじの会」の飲み会があって、初参加のダウン症児の父親がいました。
 そして、その方から「絶対映画を作るべきだ!」と尻を叩かれました。
 作曲家の椎名邦仁さんでした。
 映画音楽の作曲も手掛ける椎名さんは、事前に私の小説『ぼくはうみがみたくなりました』を読んでくれていて、「とりあえず3000万円あれば自主制作映画は作れる」という具体的な金額を教えてくれました。
 3000万円ね。ふむふむ、なるほど……。
 は? あ、いやいや……。
 3000万円なんて大金、持ってるわけないでしょ……。
 そんなことをぼんやり考えている最中でした。
 毎週通っていた歯医者の待合室に置いてあった週刊誌。そのページをめくっていたところ、とある記事に巡り合いました。
 〈若松孝二監督(故人)が、新作映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』の制作に向けてにカンパ金を集めている〉とのこと。
 カンパ金を集める……。
 寄付を集める……。
 「これだ!」と思いました。
 自宅に帰るや否や、若松プロダクションのホームページを探しました。  《カンパ金額、一口3万円》と書いてありました。
 一口3万円ずつで3000万円集めるとすると、1000人分か……。
 無茶だよなあ。
 と思いつつも、どうせ駄目もと。私はさっそく映画制作用のホームページの作成を開始しました。
 当時はホームページとブログが全盛の時代でした。SNSなんてまだまだ全然ありませんでした。
 で、ちょっと調べてみたところ、TwitterとFacebookが日本で始まったのは2008年。mixiでも2004年開始とのこと。2006年にはまだまだ卵の状態だったのでしょう。
 当然、クラウドファンディングなんていう手法も、その考え方自体すら存在しない時代でした。

 

 私がはじめてパソコンを購入し、つくしんぼのホームページを作成したのが1996年。Windows95の発売のタイミングでした。
 その後、脚本の発注のなくて創作活動が出来ない鬱憤を誤魔化すかのように、あちこちのホームページを作らせてもらいました。
 町田作業所連絡会のホームページを作り、町田おやじの会のホームページを作り、東京都自閉症協会のホームページの管理運営も担当し、パソコン通信経由で親しくなった内山登紀夫先生から「よこはま発達クリニック」のホームページの立ち上げも任せてもらいました。丸10年も遊んでいると、htmlのタグ打ちなど、最低限のことは出来るようになるもんです。
 というわけで私は、一人でこつこつ映画制作用のホームページを作成作業を始めていて……。
 ヒロキの事故の日には、いつでも公開出来る体裁が既に完成している状態でした。

 

 ホームページを作成している間の相談相手は、やはりパソコン通信内で知り合った友人達。障害児の親やら学校の先生やら。障害関係の専門家やらという、ニフティサーブ内ののFEDHAN(障害児教育フォーラム)に参加している密室(?)の仲間たちでした。映画への協力者を募り、公開以前のホームページをチェックも頼み、いろいろアドバイスを受けました。
 カンパ金の金額に関しても相談しました。若松プロの一口3万円というのは、どうしても高過ぎると思ったので……。
 皆さんの意見もほぼ同様でした。
 3万円は無茶だ。自分だったら払わない。敷居が高すぎる。
 かと言って、障害者施設の賛助会費の金額のように一口2千円程度に設定してしまったら、どうせみんな一口しか払ってくれないだろうし、塵も積もればとは言うものの、3000万円なんて夢のまた夢だろうし。
 希望的観測を含めて、一口1万円ぐらいが妥当だろう、という意見が相談メンバーの中心的金額でした。
 「とりあえず1万円に決定!」
 でもって、FEDHAN内での相談メンバーで賭けをしてみました。
 はたしていくらぐらい集まるだろうか?
 「100万円以上集まるか」と「100万円も集まらない」の二者択一。
 私は映画を制作したい、言い出しっぺの張本人。
 にも関わらず、後者の方に賭けてしまいました。
 だって私の性格からして、アカの他人から映画を制作したいという話を聞いたって、1万円もカンパしたりは絶対にしないから。せいぜい2千円かなあ、やっぱり……。
 ちなみに、その時にメンバーで何を賭けたのか、全然覚えてません。
 次回のオフ会の飲み代程度のものかなあ……。

 

 ホームページ名は『ぼくはうみがみたくなりました制作準備実行委員会』と決め、URLアドレスの発表日は4月1日にしようと考えていました。
 4月1日にした理由は……。
 だって、思うようにカンパ金が集まらなくても、「あれはエイプリールフールに発表したものでしたよ~ん!」とか言って笑って誤魔化せそうだし。
 どうせ集まったとしてもせいぜい数万円。寄付してくれた人たちにちゃんと返金すれば文句もないだろうし、返金作業なんて少人数分だろうから簡単だろうし……。
 ヒロキの事故前の私の真剣さは、実はその程度でした。駄目もと駄目もと。半分ゲームみたいなもの。企画倒れに終わったときの逃げ口上を、頭の中で常に考えていました。
 だって、3000万円なんて金額、どう考えても荒唐無稽です。
 映画は、そりゃ作りたいけど、やっぱり不可能だと思っていました。

 

 でもって、その当日の4月1日……。
 私は長男の葬儀の喪主をやっていました。

 

 そして……。
 4月5日。「ぼくうみ準備実行委員会」のホームページアドレスをついついブログで発表してしまったのです。
 お願いするカンパの金額は〈一口1万円〉のまま。ヒロキの事故のことを書き足しただけで、他は一切修正しませんでした。

 

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#6 四十九日まで

 葬儀関係の仕事が一段落すると、時が止まったまま流れていくような感覚の中、ヒロキのいない日常が始まりました。

 

 二階への階段を上がると、正面にドアがあります。そのドアの向こう側がヒロキの部屋でした。
 自分の部屋だという認識を持っていなかったと思います。祖母に買って貰った次男とお揃いの学習机が置いてあるだけ。あとは荷物だらけの倉庫みたいな部屋でした。ヒロキのくつろぐ場所は、たいていリビングか布団と毛布に巻きついていられる和室でした。
 そんなヒロキの部屋の模様替えが、私の最初の仕事でした。
 邪魔な荷物を片づけ、壁にフックを取り付けて遺影を飾りました。遺影の前には、DIY店で購入してカッティングしてきた集成板で手製の祭壇を組み立て、遺骨を置きました。壁一面には絵や写真を飾り、学習机の上には造形物を並べ……ヒロキ博物館が出来上がりました。
 つい数日前までゴミとしか思っていなかった学校やつくしんぼで作ったヒロキの作品(?)の全部が、捨てることの出来ない大切な品々になってしまいました。
 だってもう、絶対に増えてくれないのですから……。

 

 葬儀の前後、つくしんぼは春休み期間中でお休みでした。
 それが、学校の新学期が始まり、つくしんぼも活動を再開しました。
 私の自宅の向かいが、障害児のための放課後の遊び場「フリースペースつくしんぼ」です。狭い通りを挟んで、徒歩0分の場所にあります。
 なのに、私はつくしんぼに行けなくなってしまいました。
 ステップワゴンでの送迎も、新年度からは中断させて貰いました。
 無理でした。
 とにかく私は脱け殻でした。
 つくしんぼはヒロキのために作った場所。だけど今はヒロキだけがいない場所……。
 そう思うだけで、私はパニック症状に見舞われました。
 つくしんぼにいたところで、まったく役に立たない私でした。かえって邪魔なだけの存在でした。
 職員たちは「どこか旅行にでも行って来たら」と言ってくれました。
 だけど、どこにも行きませんでした。
 どこにいても、どうせ一緒だし……。
 新年度から来てくれることになった女性職員がいました。教職採用に落ちてしまい、つくしんぼで働きたいと言ってくれていた大学生でした。
 でも、彼女の仕事始めだったはずの4月1日に、つくしんぼではヒロキの葬儀をやっていました。
 迷惑をかけてしまった、とは思いつつも、私は自分のことだけで精一杯でした。
 彼女は、どのぐらいつくしんぼにいてくれたんだろう? すぐに退職してしまいました。
 後日、正式に教職採用されたと連絡を貰い、ホッとしたことは覚えています。他のことは、ごめんなさい、ほとんど覚えていません。 

 

 4月10日には、ヒロキが参加するはずだった町田養護学校(現・町田の丘学園)の入学式に、来賓者として列席させて貰いました。
 本当は保護者として来るはずだったんですけどね。
 先生が「どうぞ」と言ってくださったので、入学記念の写真撮影にヒロキも参加させて貰いました。お別れの言葉を読んでくれた中学時代の同級生の手の中の写真として……。
 嬉しかったけど、悔しかったこともありました。
 入学式で撮った集合写真を私はブログに掲載させて貰ったのですが、その数日後に養護学校の教頭先生からの電話を受けました。
 ブログに載っている写真を削除して欲しい、と。
 理由を尋ねると、匿名の保護者から苦情電話があった、とのこと。
 一瞬、なぜ? と思いました。肖像権のこともあり、私は写真データを顔の判別が出来ない程に縮小してアップしていたからです。
 でも保護者からすれば、並び順から自分の子どもがわかるわけで……。
 私はクレームばかり言っているモンスターペアレンツが大嫌いでした。義務を果たすこともなく権利ばかりを主張する連中だから。
 そんな親たちと同級生にならなくてよかった……。
 結局、写真は削除しませんでした。写真データをさらに小さく、プリクラサイズまで縮小して掲載を続けました。半ば意地でした。
 ヒロキが入学式に参加していたことを否定されてたまるか!
 その後、養護学校からの連絡はありませんでした。再度のクレーム電話があったのか、単に連絡して来なかっただけなのか、私は知りません。
 そういえば、入学式当日にPTA会長からの挨拶がなかったよなあ。
 あ、そっか。
 私が会長を引き受ける約束してたんだっけ……。

 

 4月16日には「小犬ください」という記事をブログに書きました。
 次男が「弟か妹が欲しい」と言い出し、「さすがにそれは勘弁、その代わり犬を……」ということで納得して貰いました。
 柴犬みたいに耳がピンと立っていて、雑種でよくて、妹より弟がいいから雄が希望、とのこと。
 ブログへのコメントで「いつでも里親募集中」というサイトを教えて頂き、次男と妻がさっそく覗いてみたところ……気に入った犬が見つかり、すぐに連絡をしました。
 千葉の空き家の床下で発見された二匹の小犬のうちの一匹、とのこと。
 それからわずか一週間後、愛護協会の方が町田まで連れて来てくださいました。一見して柴犬風。でも他の種類も混ざっている感じ。元気な雑種のチビ犬でした。
 名前は「ロッキー」としました。
 「ヒロキ」から「ヒ」を取って、「ロキ」→「ロッキー」と。映画のロッキーとは何の関係もありません。
 ロッキーは我が家の三男ということになります。私は次男と三男の父親ということになります。というわけで「二児の父親」→「虹の父」→「レインボーおやじ」は継続ということになりました。
 ロッキーは、漢字で書くと「緑輝」になります。
 ヒロキの戒名〈緑雲輝宝〉から二文字取っての当て字です。
 もうすぐ、ヒロキの生きた年月、15年と6ヶ月をロッキーが越えます。

 

 ブログの執筆は、5月3日で丸2年になりました。
 書き始める2年程前にTIA(一過性脳虚血性発作)という軽度の脳梗塞症状に見舞われ、その直後からは得体の知れない体調不良に苦しむようになり、心療内科にお世話になるようになり、自分の寿命はたいして長くないんだろうなあと思うようになり……。
 いろいろ書き留めておこうと思い、遺書代わりにするつもりで始めたブログでした。
 当初のブログのタイトルは『自閉症の小説!?』。映画化へ向けての布石になればいいな、なんて思っていたりもしました。始めてから二年間は読んでくれているのはほぼ友人だけ。一日の訪問者は数十人。読者なんてほとんどいない、日記のようなブログでした。
 それが……。
 ヒロキの事故を境に、アクセス数が一気に増大しました。設置してあるカウンターのカウント数が毎日数千単位で増えていくのです。
 コメントの他に、メールもたくさん頂くようにもなりました。
 『ぼくうみ制作準備実行委員会』のホームページを見てくれて、ヒロキの事故のことを知ってくださった方が大勢いました。自閉症児の親御さんからのものが一番多かったっけ。メールの文面には、ヒロキへの弔意の言葉と、映画制作への応援の言葉が溢れていました。
 「自分の持っているブログに紹介記事を書いてもいいですか?」「管理しているホームページに映画応援用のバナーリンクを貼らせて貰ってもいいですか?」という、ありがたくて嬉しい申し出をたくさん頂きました。
 新聞社やテレビ局の記者の方からは次々と取材依頼を頂き、もちろん全て受けました。
 私は毎日、大半の時間をメール返信に費やしていました。返信のメールを書いている最中は、集中していたんでしょうね、不思議と気持ちが落ち着いていました。
 ブログのタイトルを『おさんぽいってもいいよ~』に変更したのは、ヒロキの事故から2ヶ月が過ぎてから、6月に入ってからでした。たぶんその時期、ぶどう社の市毛さんにヒロキのことをまとめた本を出したいと頼んだ頃だったような気がします。

 

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