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#5 ホームページ公開

 「事故の日の1週間後に映画制作の発表だなんて……」
 少し経ってから、多くの方々に「早過ぎるのでは?」と言われました。ネット経由では非難の意見も受けました。
 そうですよね。早過ぎますよね。
 あとで振り返って、たしかに私もそう思いました。つくしんぼでの葬儀をなんとか乗り越えて、わずか4日後ですもんね。
 でも……。
 あとの祭りです。
 私は4月5日にブログに書いてしまいました。
 意図的だったのか、無意識のうちに書いてしまっていたのか……。
 それすらよく覚えていません。
 たぶん、無意識下で自己保身能力が働いたんだと思います。

 

 事故の日と葬儀の日の間のことだったような気がします。弔問に来てくれた誰かに向かって言った妻の言葉を覚えています。
「私は大丈夫だけど、お父さんが壊れちゃいそう……」
 実際、私が格闘しなければならない相手は私自身でした。
 崩れ落ちそうな自分。気が狂いそうな自分。どうすれば正気を維持出来るのか……。
 答えはありませんでした。
 とにかく、まずは目の前に迫る〈やらなければならないこと〉をやるだけ。葬儀をきっちり終わらせることだけに集中しました。
 気持ちは封印していました。泣き崩れてたりしていたら、感情の起伏が津波のように膨れ上がり、それこそ私自身の精神が崩壊してしまう。それだけはなんとしてでも避けたい……。
 ブログを書くことも、私にとって、毎日やらなければならないことのひとつでした。自閉症の人が安定したい時と同じ。ルーティンを守りたくて、日々のブログを、事故の当日も含めて、絶対に休まず書き続けていたように思います。
 そして、やらなければならないことをやろう、という思いが、ブログでの映画制作の発表に繋がってしまったような気がします。たぶん。
 なにしろ私は、ヒロキの事故の直前の頃、1月から3月にかけて、つくしんぼの運営などそっちのけで、〈映画をつくるにはどうすればいいのか〉ばかりを考えていたのですから。

 

 年末の忘年会か年始の新年会か、どちらだったのか忘れましたが、「町田おやじの会」の飲み会があって、初参加のダウン症児の父親がいました。
 そして、その方から「絶対映画を作るべきだ!」と尻を叩かれました。
 作曲家の椎名邦仁さんでした。
 映画音楽の作曲も手掛ける椎名さんは、事前に私の小説『ぼくはうみがみたくなりました』を読んでくれていて、「とりあえず3000万円あれば自主制作映画は作れる」という具体的な金額を教えてくれました。
 3000万円ね。ふむふむ、なるほど……。
 は? あ、いやいや……。
 3000万円なんて大金、持ってるわけないでしょ……。
 そんなことをぼんやり考えている最中でした。
 毎週通っていた歯医者の待合室に置いてあった週刊誌。そのページをめくっていたところ、とある記事に巡り合いました。
 〈若松孝二監督(故人)が、新作映画『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』の制作に向けてにカンパ金を集めている〉とのこと。
 カンパ金を集める……。
 寄付を集める……。
 「これだ!」と思いました。
 自宅に帰るや否や、若松プロダクションのホームページを探しました。  《カンパ金額、一口3万円》と書いてありました。
 一口3万円ずつで3000万円集めるとすると、1000人分か……。
 無茶だよなあ。
 と思いつつも、どうせ駄目もと。私はさっそく映画制作用のホームページの作成を開始しました。
 当時はホームページとブログが全盛の時代でした。SNSなんてまだまだ全然ありませんでした。
 で、ちょっと調べてみたところ、TwitterとFacebookが日本で始まったのは2008年。mixiでも2004年開始とのこと。2006年にはまだまだ卵の状態だったのでしょう。
 当然、クラウドファンディングなんていう手法も、その考え方自体すら存在しない時代でした。

 

 私がはじめてパソコンを購入し、つくしんぼのホームページを作成したのが1996年。Windows95の発売のタイミングでした。
 その後、脚本の発注のなくて創作活動が出来ない鬱憤を誤魔化すかのように、あちこちのホームページを作らせてもらいました。
 町田作業所連絡会のホームページを作り、町田おやじの会のホームページを作り、東京都自閉症協会のホームページの管理運営も担当し、パソコン通信経由で親しくなった内山登紀夫先生から「よこはま発達クリニック」のホームページの立ち上げも任せてもらいました。丸10年も遊んでいると、htmlのタグ打ちなど、最低限のことは出来るようになるもんです。
 というわけで私は、一人でこつこつ映画制作用のホームページを作成作業を始めていて……。
 ヒロキの事故の日には、いつでも公開出来る体裁が既に完成している状態でした。

 

 ホームページを作成している間の相談相手は、やはりパソコン通信内で知り合った友人達。障害児の親やら学校の先生やら。障害関係の専門家やらという、ニフティサーブ内ののFEDHAN(障害児教育フォーラム)に参加している密室(?)の仲間たちでした。映画への協力者を募り、公開以前のホームページをチェックも頼み、いろいろアドバイスを受けました。
 カンパ金の金額に関しても相談しました。若松プロの一口3万円というのは、どうしても高過ぎると思ったので……。
 皆さんの意見もほぼ同様でした。
 3万円は無茶だ。自分だったら払わない。敷居が高すぎる。
 かと言って、障害者施設の賛助会費の金額のように一口2千円程度に設定してしまったら、どうせみんな一口しか払ってくれないだろうし、塵も積もればとは言うものの、3000万円なんて夢のまた夢だろうし。
 希望的観測を含めて、一口1万円ぐらいが妥当だろう、という意見が相談メンバーの中心的金額でした。
 「とりあえず1万円に決定!」
 でもって、FEDHAN内での相談メンバーで賭けをしてみました。
 はたしていくらぐらい集まるだろうか?
 「100万円以上集まるか」と「100万円も集まらない」の二者択一。
 私は映画を制作したい、言い出しっぺの張本人。
 にも関わらず、後者の方に賭けてしまいました。
 だって私の性格からして、アカの他人から映画を制作したいという話を聞いたって、1万円もカンパしたりは絶対にしないから。せいぜい2千円かなあ、やっぱり……。
 ちなみに、その時にメンバーで何を賭けたのか、全然覚えてません。
 次回のオフ会の飲み代程度のものかなあ……。

 

 ホームページ名は『ぼくはうみがみたくなりました制作準備実行委員会』と決め、URLアドレスの発表日は4月1日にしようと考えていました。
 4月1日にした理由は……。
 だって、思うようにカンパ金が集まらなくても、「あれはエイプリールフールに発表したものでしたよ~ん!」とか言って笑って誤魔化せそうだし。
 どうせ集まったとしてもせいぜい数万円。寄付してくれた人たちにちゃんと返金すれば文句もないだろうし、返金作業なんて少人数分だろうから簡単だろうし……。
 ヒロキの事故前の私の真剣さは、実はその程度でした。駄目もと駄目もと。半分ゲームみたいなもの。企画倒れに終わったときの逃げ口上を、頭の中で常に考えていました。
 だって、3000万円なんて金額、どう考えても荒唐無稽です。
 映画は、そりゃ作りたいけど、やっぱり不可能だと思っていました。

 

 でもって、その当日の4月1日……。
 私は長男の葬儀の喪主をやっていました。

 

 そして……。
 4月5日。「ぼくうみ準備実行委員会」のホームページアドレスをついついブログで発表してしまったのです。
 お願いするカンパの金額は〈一口1万円〉のまま。ヒロキの事故のことを書き足しただけで、他は一切修正しませんでした。

 

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