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#3 思い起こし(後)

 以下の文章は、拙著『おさんぽいってもいいよぉ 自閉症児ヒロキと歩んだ15年』(ぶどう社刊)の108~113ページからの引用です。

 

*   *   *

おさんぽいってもいいよぉ~
 4月1日が通夜、2日が告別式でした。
 火葬場と住職の都合で、事故から3日もあいてしまいました。
 その間のつくしんぼには、ヒロキと私たち家族以外にも、常に10人以上のヒロキの仲間たちが一緒に寝泊まりしてくれていました。
 私はというと……いろいろな仕事をきっちりこなしていたようです。
 ようです、というのは、この期間の記憶がほんとにほとんどないからです。事故から数日間、まったく寝ていなかったらしいのですが、そのことさえよく覚えていません。
 私の頭のなかにあったのは、早くきっちりと葬儀を終わらせて楽になりたい、という思いだけでした。そのためには機械になってしまうこと。感情なんか入れたら、頭がどうかなってしまうかもしれない……。
 ヒロキの葬儀には、のべ千人をこえる方々がいらしてくださいました。狭いつくしんぼとその周辺の道は大混雑。ご近所のみなさんにも迷惑をかけてしまいました。
 初七日までの法要を済ませ、ようやく家に帰ってからは……なにもない、ひたすら空白の日々が続きました。あるのは、津波にように、余震のように、間を置いてはくり返し押し寄せてくる悲しみだけ……。
 耐えることはしませんでした。ただただ泣きました。
 納骨はしないことにしました。ヒロキの部屋に置くことにしました。まだ15歳。自分たちが死ぬまで、頑張ってなんとかし続けなければならないと覚悟を決めていた子です。そんな簡単に手元から放す気になどなれっこありません。なので、ようやく体が動き始めてから最初にやったことは、ほとんど倉庫状態だったヒロキの部屋の掃除でした。
 三人家族になってしまった、という実感はまったくありませんでした。ヒロキはどこかへ長期のお泊まりに出かけているだけ。そのうち帰ってくるような、そんな感覚……。
 事故現場に対しての思いは、私とお母サンはまったく逆でした。お母サンは、事故現場とそのすぐ上を渡る町田街道の陸橋に、1ヶ月以上近づくこともできませんでした。
 私は、数日後には訪れていました。
 雲ひとつない日でした。人通りのほとんどない坂の途中にあるせまいその踏切に、私はバイクで一人、思い切って行ってみました。ちょうど、幼稚園か保育園の散歩途中の園児20人ほどが、保育士さんたちに連れられて踏切を渡っているところでした。
 踏切から事故現場である陸橋の真下あたりまでは、約300メートルの直線。その先で線路は右へ急カーブしています。
 その踏切の真んなかにぼんやり立ってみて、ふと思い出しました。小学生だった頃、まだ単線だった頃、ここから次の踏切までの間の線路の上を歩いて遊ぶのが好きだったっけ。電車が接近すると、慌てて線路脇の沼地に逃げ込んで泥だらけになったっけ。あのスタンドバイミーの映画のように……。
 警報が鳴り出し、遮断機が降り、私は踏切のすぐそばで、ものすごい勢いで通過して行く電車を見ました。
 それからまた開いた踏切に入り、通り過ぎた電車の最後部を眺めたとき、わかったことがありました。間違いありません。
 そう、ヒロキはちゃんと電車をちゃんと避けていたのです。電車に轢かれたのではなく、電車とほんの少し接触してしまっただけなのです。ちゃんと避けたつもりでいたものの、電車の車両の幅が線路の幅の3倍以上もあることまでは知らなかったんだと思います。線路からかなり避けているにもかかわらず、ヒロキは車両の角に後頭部をぶつけてしまったのです。
 あと10センチ余計に避けてくれていれば……。
 車だったら、このぐらい避けておけば、逆に車の方が避けてくれるのに……。
 一人で散歩なんかさせなければ事故にあわなかったのに、と言われたりもしました。
 たしかにそうかもしれません。でも、私たち夫婦は、ヒロキを散歩に出していたこと、それほど後悔はしていません。
 だって、ヒロキの一番の楽しみは、〈おさんぽ〉だったのですから。
 知的にも重度の自閉症だったヒロキです。中学生になっても一人での登下校は難しく、親が送迎していました。だけど、いつか一人で歩けるようになって欲しい。そう思ったからこそ、親である私たち夫婦は、バスで通う遠くの養護学校ではなく、地元の小中学校を選んだのです。
 そして、長年の親子での散歩の積み重ねがあったからこそ、少なくとも車の危険性だけは理解できるようになり、信号も横断歩道も渡れるようになったのです。
 「障がいをもってます」の名札をストラップにしたGPS機能つきの携帯は、ヒロキにとっての印籠でした。一人で散歩に出るといつも怒られてばかりいたのに、これをちゃんと首にかけていれば、親は自分の一人での散歩を許してくれる。
 「おさんぽいってもいいよぉ~?」と質問して、お母サンが「おさんぽいってもいいよぉ~」と言ってくれれば、行きたい場所に自由に行ってもいい。幼稚園児ぐらいになればあたりまえに許されることを、ヒロキは中学生になってやっと許してもらえたのです。
 了解をもらえた瞬間の、あの嬉しそうな顔。家に帰ってきたときの、あの満足そうな顔。そんなヒロキの表情が、今でも私の目の裏にはそのまま焼きついています。
 後悔があるとしたら……自閉症の特性の理解が足りなかったこと、です。
 ヒロキの事故後に、リキ・リンコさんの著書を読んで、ハッとさせられました。
 「電柱にのぼってはいけない」と聞いても、屋根や木や崖にのぼってはいけないとは思いつかなかった。屋根や木や崖が高いことは知っていたが、電柱も屋根も高い木も高い崖もどれも〈高いところ〉であるとは考えなかったし、「高いところには、のぼってはいけないらしい」とも考えなかった……。
 翻訳家として仕事を立派にこなすアスペルガー症候群の彼女です。そんな彼女でさえ、幼少時代の認知度がこのレベルだったとしたら……。
 中三のときに受けた検査の診断書の医学的総合判定の欄には「重度の自閉症状を伴う精神遅滞」と記載されています。3歳9ヶ月のレベルだとも言われました。そんなヒロキのレベルでは、たとえ道路を走る車が危険であることを知っていても、線路を走る電車が危険だとは思わなかったのかも……。
 教えておけばよかったです。電車が危ないこと。踏切が危ないこと。線路は危ないから歩いてはいけないこと。そのひとつひとつを……。
 ヒロキがいなくなってからの、私にとっての一番の苦痛は、つくしんぼの活動を続けなければならないことでした。
 つくしんぼ自体はなにも変わっていません。それまでと同じように、毎日、障がいをもつ子どもたちがきては遊んでいます。
 ただひとつ変わったのは、もうヒロキがこない、ということ。
 ヒロキのためにつくった場所に、ヒロキだけがいない……。
 そう思うだけで、子どもたちが遊んでいる姿を見ているだけで、心が張り裂けそうになり、自宅へと逃げ帰ったことが何度もありました。
 本当はやめたかった。でも、やめられませんでした。
 NPO法人化のための申請を、ヒロキの事故の直前に出していました。で、認可されたのが、事故の直後。ヒロキがいなくなるってわかっていれば、法人化の申請なんかしなかったのに……。
 それでも、なんとか踏ん張って続けることができたのは、ささえてくれる仲間の存在があったからです。つくしんぼの仲間、学校の仲間、町田おやじの会の仲間、福祉関係の仲間、パソコン通信時代からのネットの仲間……。
 なんかすごいな、と思いました。みんなみんな、ヒロキがつくった仲間だからです。
 ヒロキの事故の日から、さかのぼること半年。2005年の10月。つくしんぼは盛大なる10周年の記念パーティーを開きました。
 本当は、活動を開始してからまだ9年半目だったのですけど、なぜか10周年を祝ってしまおうということになりました。四捨五入で10年ということで、まぁいいか、と。
 だから、パーティーの参加者全員で撮った記念の集合写真の中心には、中学三年生のヒロキと私が並んで写っています。
 10周年、1年早くやって、本当によかったです。
 だって、次の年には、もうヒロキはいなかったのですから……。

 

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