#10 振り返れば一年
2006年。平成18年。
忘れたくても、忘れられない年。きっと自分が死ぬまで……。
まさしく怒涛の一年でした。
まだヒロキが生きていたこの年の正月。映画用のホームページ作成にとりかかったのは、箱根駅伝を見終えた直後のこと。
やっぱり映画をつくりたい。できれば4年後までに。15歳のヒロキが19歳になるまでに。ぼくうみの主人公の浅野淳一君とヒロキが同い年のタイミングに合わせて……。
3月。中学校の卒業式には、早咲きの桜が満開でした。
4月に入れば、ヒロキは養護学校の高等部へ進学。そのタイミングで障害者自立支援法が施行され、福祉の環境も一変しそう。学校教育に頼れる期間もあと3年だから、そろそろ卒後のことも考えなければならない。
養護学校のPTA会長役を前会長から引き継ぐ密約をしたり、校長と連絡を取り合って父親の会(町田おやじの会の養護学校版)の創設を画策したり。これまでと同様、先手必勝とばかりの先行投資ならぬ先行奉仕。社会福祉法人化も視野に入れつつ、つくしんぼのNPO法人化の申請も無事完了……。
漠然とですが、この頃はまだ、将来起こるであろう諸問題なんて、それなりに無難に何とかなるような気がしていました。
ところが……。
3/28が分岐点になりました。すべてが一変しました。
(※ この日のことは、2章にあるとおりです。)
私のなかにあった計画の全ては、絵に描いた餅となりました。
ヒロキが生まれて来るまでの30年を、自分はずっと自分のためだけに生きてきて、それなりに楽しんで来たんだから、まあ、いいかな。
ヒロキが生まれて来てからの30年は、今度はヒロキのために生きてみるのもありかな。
とりあえず脚本家にはなれたものの、努力では才能に勝てないという現実を痛感して第二の人生を模索していたところだし、胃潰瘍から逃れらない弱肉強食の業界にサヨナラして、福祉の業界へ逃げ込むというのもありかな。
というわけで、町田の福祉に足を踏み込んでみたところ、これが結構楽しくて面白い。何よりもマスコミ関係者なんかより人間が優しい。
なんでえ、こっちの方がいいじゃん。
でも違っていました。
4月に入り、福祉がまったく楽しくないことに気づきました。
楽しかったのはヒロキがいたから……だったみたいです。
頭がおかしくなりそうな感覚を誤魔化したくて、福祉など忘れ、ひたすら映画のことだけを考え続けました。
さすがに、かなりのストレスだったみたいです。一年のうちに何度も自律神経異常と躁鬱傾向に苦しみました。
遡ること2年前に始めたブログは遺書のつもりでした。
軽度の脳梗塞(TIA = 一過性脳虚血発作)の直後に鬱状態に陥り、あまり長生きできそうもないなと思いつつ書き始めたものでした。
そんな個人的なブログが、いつしか映画制作に向けての宣伝用ブログと化してしまいました。
年末には、1年のまとめをブログに連載で書いてみました。大晦日から遡ること約2週間。12/16~31の16日間。
テーマは……「自分はなぜ映画をつくるのか?」
ヒロキが生きている時には、自閉症の啓発のために作りたいと思っていた映画でした。小説のぼくうみは、映画のための原作でした。
それが、ヒロキがいなくなって、「絶対につくる」という思いばかりが先行し、映画をつくる目的みたいなものが自分のなかで曖昧になっていました。
「とにかく作りたいから」
「自閉症という障害のことを広く伝えるため」
「ヒロキのことを忘れて欲しくないから」
「自分にとってのヒロキへのレクイエム」
「ヒロキのために出来る自分の最後の仕事だから」
「ヒロキのもっていた自閉症という障害に感謝をこめて」
新聞やテレビなどの取材があるたびに、違う返答を繰り返していたように記憶しています。
そして、そのどの答えも自分のなかで、どうにもしっくりこない……。
対外的な営業トークとしては、やっぱり「自閉症という障害のことを広く伝えるため」ということになるのでしょう。
だけど、自分のなかでは、本当にそうなのか? 本当にそんな仰々しいこと思っているのか? どうにも違和感を感じてしまい……。
ふと思いついたのが、「障害児を育てている親たちにエールを送るため」という理由でした。
〈自閉症の啓発〉なんて偉そうなものじゃない。自閉症を知らない人に自閉症を伝えるなんて、実はそんなに簡単に出来ることじゃない。そんなことが1本の映画で出来るのだったら、自閉症なんてとっくに世間一般に認知されているはず……。
私はもともとかなりヘソ曲がりな性格で、学生時代から「他人が出来ることは他人に任せればよく、わざわざ自分がやる必要はない」とか思って生きてる奴でした。脚本家時代から「自分にしか書けない作品であること」を常に意識していました。
だけど、実際に脚本家として書く作品は気がつけばいつしかギャラのため。「自分にしか書けない作品」なんて皆無。どれもこれも私でなくても「誰が書いても大して変わらない作品」ばかりでした。
とくにヒロキが自閉症とわかった以降は、私が脚本家としての受注している仕事なんて絵空事ばかりで、誰かでも書いても一緒であることを再確認してしまいました。
そんな中途半端な仕事より、それより自分にしか出来ない仕事はヒロキのために何かをすることと思うようになり、障害児の放課後の遊び場「フリースペースつくしんぼ」を立ち上げたんだっけ。
〈自閉症の啓発〉だけだったら、わざわざ私がやる必要もない。プロの脚本家は大勢いる。私でない他の誰かにお任せすればいい。
それより、私は私にしか出来ない〈なにか〉をしなければならない……。
それは「障害児の親のOBとして障害児を育てている親たちにエールを送ること」のような気がしたのです。
エールを送るのは、辛いことを知っているから。
経験してない人には絶対にわからないことだから。
まだまだヒロキと一緒にやりたかったことがいっぱいあったのに。
それが、もう出来ない。
もう何も出来ないことが一番つらい。
「だから、出来るうちに頑張って障害児を育ててください」
そんな思いを伝えるために、映画をつくってエールを送りたい……。
もしあの時、「映画をつくる」と宣言していなかったら……。
代わりに私は何をしていただろう?
何もすることがなく、何をする気にもなれず、かといって死に急ぐことも出来ず、廃人のようになってヒロキとの15年間の思い出にすがりながら、それでもゆっくりと時は過ぎ、ただただ自分を誤魔化しつつ年末を迎えてたような……。
子どもや家族を事故等で失った時、とりわけ加害者がいる場合、怒りを加害者に向けることで精神的バランスを保とうとする傾向があるような気がします。悲しみを怒りにでも変えないと、自分が壊れてしまうから。やられたらやり返す。弔い合戦は、人間の本能ゆえ。
そんな攻撃対象のかわりが、私の場合、映画制作だったような気がします。
喪中なので年賀状は作りませんでした。
この際なので今後は永久喪中ということにして、年賀状作りはやめてしまうことにしました。長年、子ども二人の写真をネタに作ってきていた年賀状なので、ヒロキのいないとデザイン用の素材もなく……。
年が明けて2月、桜の苗を植えました。
ヒロキが桜の満開の季節にいなくなったこともあり、いつしか庭に桜を植えたいと思うようになっていました。ヒロキの誕生日の9/24に、と思ったのですが、そんな季節外れに植えたら枯れてしまう可能性が高いらしく、結局年明けまで待った次第です。
小彼岸桜という品種を選びました。あまり大きくならない山桜です。庭に巨大な桜の樹があったら、それはそれで困ると思うので。
島根にいる友人のご主人が仕事で出向いた大分で発見したと、苗樹を5本送ってくれました。
庭に3本、畑の土地に2本植えました。
それぞれ「ひ」の樹、「ろ」の樹、「き」の樹、「で」の樹、「す」の樹、と呼ぶことにしました。
ちなみに、植えた当初から現在まで残っているのは「き」の樹1本のみ。他の4本は強風や台風でみんな根っこから折れてしまいました。折れるたびに、かなりショックでした。
でもこのヒロキ桜、思った以上に丈夫な樹で、たとえ倒れても、その折れた根っこを別の場所に植え替えておくと、子の樹、さらに孫の樹がまた新たに枝を伸ばして成長してくれることがわかり、樹が折れることはあまり気にしなくなりました。誰かが倒れても、誰かが頑張ればそれでいい……。
今ではあちこちの場所にわかれ、全部で10本以上に増えています。
そのうちの1本は、遠く島根に遠征しています。桜の苗を送ってくれた友人が家を新築し、庭に桜を植えたいと言うので、一番小さかった樹を掘り起こして、フェリーと高速を乗り継いで持って行ってあげた次第。まだ小さな樹だけど、それでもしっかり花をつけているとのこと。
ちなみのついでに、私は8年後の2014年から年賀状づくりを再開しています。
一番丈夫そうに育っていたものの、強風に負けて倒れてしまった「ひ」の樹の幹の部分を利用して、門松ならぬ門桜作ってみたからです。
作ったからには、写真に撮って年賀状にしてみようかな、と……。
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