#11 それからの一年
2007年。平成19年。
桜の植樹に続き、3月にはヒロキの一周忌……。
納骨はせず、遺骨はずっとヒロキの部屋──その頃はもう妻の部屋になっていましたが──に置いてありました。会ったこともない曾祖父母と一緒の墓に入るより、家族と一緒の自宅にいた方が気楽だろうし。
まあ、親が心の整理を出来ていなかったからなのですけど。まだまだ私の心は一喜一憂を繰り返していました。
前年の秋頃から集まり始めた映画製作への協力者、監督の福田さん・カメラマンの青木さん・プロデューサーの松本さん・アソシエイトプロデューサーの岡田さん、そして私の五人は、月に数回集まって打ち合わせを繰り返すようになりました。
松本さんが代表を務める会社「コクーン」が製作プロダクションとして正式決定したのは5月に入ってから。名ばかりの〈制作準備実行委員会〉が、正真正銘の〈製作実行委員会〉へステップアップした瞬間でした。
ヒロキの事故から始まった紆余曲折。ブログでの映画制作宣言をし、実行委員会を立ち上げて制作費カンパのお願いをし、ホームページ更新、応援メール返信、マスコミ取材、シナリオ執筆、三浦での協力者探し、映画関係者を探しての製作相談……ずっと自分一人。孤独で不安でした。
これはヒロキの弔い合戦なんだからとは思って頑張ってはいたものの、やっぱりかなりしんどかったっけ。
そんな環境が一気に変わりました。一人じゃないと思えることが、これほど力強いとは思いませんでした。
「ヒロキの三回忌までに映画を完成させたい」
私はテレビ等の取材を受けるたび、そう繰り返していました。
だから完成目標は3年後と思っていたのですが、よくよく考えたら三回忌はとは〈命日→一周忌→三回忌〉なので、実際は2年後でした。
うーん、もう1年経ってしまった。あと1年しかない……。
焦る私に対して、みんなは優しく助言してくれました。
まずはじっくり腰を据えて、と。
映画製作はとにかく準備が大切だから、と。
カンパ金の総額が目標金額の半分、1500万円を超えた6月後半、映画制作が具体的な動きに入りました。
五人だった作戦会議は、回数を重ねるたびに参加人数が増えていきました。助監督、協力プロダクション、キャスティングプロデューサー、ラインプロデューサー等々。プロデューサーが人を探してきて、監督がオーケーすれば、私が意見を求められることもなく、スタッフメンバーが次々と決定していきました。
それは不思議な感覚でした。自分から動く必要がない。まるで動く歩道にでも乗せられたような……。
不満はありませんでした。というか、もはや私が何か言っても止まらない雰囲気。それは決して悪いものではありませんでした。ずっと一人で考え、一人で脚本を書くという作業しかしてこなかった私にとって、それは初めて経験でした。映画制作の現場を、監督の名前で「○○組」と呼ぶ理由を垣間見た気がしました。
福田組はいつしか三浦半島方面へのロケハンも重ねていたようです。私も行きたかったけれど、声もかけてもらえませんでした。まあ、作家先生(?)はシナハンまでで充分。現場では邪魔な存在。いちいち横から何か言われると、動くものも動かなくなるらしいようで。
ふーん、これが映画製作の現場なんだ……。
ふーん、みんな映画が好きなんだ……。
撮影に関しての一切を監督主導の現場に任せ、私の仕事は松本プロデューサーとの確認事項の確認がメインとなりました。
・制作費不足ゆえ、企業に対しての協賛お願い活動を本格的に始める。
・配給ライン(映画館での上映)の方向性を探っていく。
・作品の内容に対して口を挟みたがるスポンサーの参加はご遠慮願う。
・今年度中は準備に費やす。撮影は来年に入ってから。
・文化庁の助成補助を絶対に受けられるように頑張る。
・制作進行スケジュールが遅れたとしても、文化庁の助成期限である来年度末までには必ず完成させる。
等々……。
当初、私は全国公開ロードショーを夢見ていました。
けれど、すぐに諦めました。
上映館を増やすことは、実は簡単らしいのです。上映したい映画館とそれぞれ契約をし、上映予約金を払えばいいだけのこと。
だけど、この上映料金というのがハンパな金額じゃない。小劇場にしても、映画館のひとつのスクリーンを2週間確保するためには百万円単位がかかるとのこと。
10館だと1千万。100館だと1億円。そんな……!
しかも、上映館が増えるとなると、それなりの観客動員も必要となり、必然的に多額の広告費も必要になるとのこと。そんなわけで映画製作費の半分を広告費にあてるのが業界の常識らしく……。
結局、広告費がプラスされて巨額と化した製作費を賄うための手段として、テレビ局やら広告会社やら出版社やらが集まっての製作実行委員会形式が取られているとのこと。
私が考えていた〈製作実行委員会〉とは意味も規模も全然違いました。
もっともメジャー作品の製作実行委員会なんて、製作費は集められても船頭多くて企画動かず。結局のところ映画がグチャグチャで客が入らず、という話はよく耳にするよなあ……。
企画ごと丸売りしてしまう方法、というのもないことはない、とのこと。
もっとも、ベストセラー小説ならともかく、ぼくうみ程度の小説では、儲かりそうもないので誰も興味を示してくれそうもないようで……。
「ぼくうみ」はあくまで私の映画でした。弔い合戦としての映画製作。作品に関して、他人にとやかく言われたくありませんでした。
結局私が思ったこと。
ロードショーは単館で出来れば充分。
その後は全国各地での自主上映会が出来れば充分。
出来る範囲で何とかする。それ以上のことは望まない。
ないものねだり、はせず、あるものさがし。
映画が作れること自体が奇跡的なのだから……。
クランクインは来春予定と決まりました。
10月。私は映画の宣伝にもなるかなと思い、ヒロキの想い出をまとめた本を出版したいと考えました。
出版となれば、出版社はやっぱり「ぶどう社」です。
なんたって「ぼくはうみがみたくなりました」を刊行してくれた出版社です。「『障害児なんだうちの子』って言えたおやじたち(町田おやじの会 編)」を出版してくれたのもぶどう社です。
本のタイトルは既に勝手に決めていました。
「おさんぽいってもいいよぉ~ 自閉症の長男ヒロキと歩んだ15年」
企画意図は次の通り。
「重度自閉症の長男を電車事故で失った父親(山下)が、長男とともに過ごした15年間の奇跡を辿るとともに、自閉症を描いた小説『ぼくはうみがみたくなりました』映画化への思いを織りまぜながら、障がい児の親たちに「たとえ障がいがあっても、子どもが生きていること、子どもと過ごせることの幸せ」をメッセージとして伝えたい。障がい児の親たちに送る“エール”のような書籍にしたい……」
市毛さんは、少し考えたあと、苦笑しながらこう言ってくれました。
「うーん、仕方ないよなあ……」
出版は映画の完成の直前頃がいいかな、と伝えました。
印税はまるごと製作費に回すつもりでいました。まあ、そんなに売れないだろうけど。
11月に入ると、文化庁の文化芸術振興費補助の申請申込との格闘が始まりました。
しかし、敷居が高い。申込みの最低条件が5千万円規模の作品。私は3千万円規模での製作を考えていたのですが、それでは助成対象にならない。
助成額は3分の1。5000万円の場合、決まれば約1600万円。
うーん、製作費のバージョンアップが必要か……。
一緒に説明会に出席した松本プロデューサーがボソッと言いました。
「3000万円で考えていても、5000万円ぐらいかかってしまうよ。映画ってそういうもんだから……」
うーむ。結局のところ私の借金が増えるだけか……。
助成金ゲットは約3倍の競争率とのこと。でも自信はありました。
申請を終え、心配しながら待つこと3ヶ月。
3月に決定しました。
ただ、助成基準額が変更となって減額され、1千万とのこと。
減っちゃったけど……それでも嬉しい……。
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