#7 ぼくうみヒストリー
我が家の二階の和室、天袋の一番奥に、A4コピー用紙の箱が置きっぱなしになっています。
箱の中身は古い原稿の束。大学時代から書き溜めた習作時代の脚本。いつかネタとして使えるかも知れないと思い、未練とともに捨てずに残しておいた作品群です。
そんな半ば朽ちかけた古箱の中に『自殺志願』というタイトルの映画シナリオが残っていまして……。
あらためて読み直してみました。以下のような流れの作品です。
とあるマンションの屋上。
飛び降り自殺を試みようとした若い男女が遭遇。
そんな二人は盗んだワンボックス車で、他の自殺場所を探すべく湘南・三浦半島方面へドライブ。
途中で自殺願望を持つ老夫婦にヒッチハイクされ。
さらに郵便局強盗にカージャックされ……。
自分で言うのもなんですが、思いっきりの駄作です。
大学を卒業したばかりの23~24歳ぐらいの頃、どこかの懸賞募集用に執筆したシナリオだったように記憶しています。
海が好きで、漠然と海へと向かうロードムービーを書きたいなあ、「幸せの黄色いハンカチ」みたいな作品を書きたいなあ、なんて思っていたような気がします。自殺しようとしていた善人たちが生き残り、生き残ろうとしていた犯罪者だけが死んでしまう。人生の皮肉のようなもの(?)をテーマに描こうと試みてみたものの、見事に失敗している作品、いや、作品と呼べるレベルにすら達していません。痛感しました。こりゃ落選して当然だ……。
しかし、自分は何で自殺なんてテーマを選んだんだろう?
まったく記憶がありません。おそらくは、賞を取るためにはそれなりに重たいテーマが必要だとでも思ったんでしょうね。軽薄な奴です。
ちなみにこのシナリオ、たしか手書きだったはずなのですが、残っていた原稿はなぜかワープロ印刷。たぶん親指シフトキーボードの練習用に打ち込んでみたんだと思います。元原稿は捨てたんでしょうね。自分の汚い字を見なくて済むので。
ただ、このシナリオ、捨てなくてよかった……。
手塚プロダクションと契約中の28歳で結婚し、30歳の時にヒロキが生まれ、33歳の時にヒロキが自閉症だとわかりました。
そんなヒロキを連れて、小学校時代からの腐れ縁の産婦人科医になった友人宅に遊びに行った時に言われた言葉があります。
「自閉症かあ。大人になったら治るんじゃないかな……」
とくに愕然ともしなかったし、ショックもありませんでした。
それより呆気にとられてしまいました。産科の医師は鬱病や引き籠もり状態を指す精神科での診断名としての〈自閉症〉の知識は持っていても、自閉症という障害自体のことは全く知らない。ここまで自閉症の知名度は低いのか、と。
で、そのとき思いました。
〈自閉症〉を伝える作品を書こう、と。
自閉症の専門書を片っ端から読み漁ることに時を費やし、半ば出社拒否状態に陥って手塚プロダクションからクビを宣告されてしまった私です。仕方なくフリーとなり、知り合いの脚本家に紹介して貰い、アンパンマンなどの他社のアニメ作品を書かせて貰っていた頃だったと思います。
さて、どんなストーリーがいいだろう? と考え、ふと思い出したのが『自殺志願』という過去に書いたシナリオでした。作品としては駄作だったけれど、ロードムービー風のストーリー展開は使えるかも知れない。
頭のなかで過去の作品と新たに書こうと思う作品を組み合わせてみたところ、漠然と思い浮かんだ話は以下の感じのものでした。
とあるマンションの屋上。
飛び降り自殺を試みようとした女の子が自閉症の青年と遭遇。
そんな二人は盗んだワンボックス車で、湘南・三浦半島方面へドライブ。
途中で老夫婦にヒッチハイクされ……。
あれ? と思いませんでしたか。
そう、実は『ぼくうみ』とほとんど一緒なんです。
もちろんこういうのって、他人の作品だったら盗作です。でも自分の作品を自分で使うのであれば流用で、何の問題もありません。
この話の流れは案外使えるかも知れない、と直感的に思い……。
となればシナリオハンティングだ、とバイクでふらりと三浦半島の突端にある城ヶ島まで出かけてみました。
灯台やら断崖絶壁の下やら、あちらこちらをあらためて散策し、島一周の遊覧船にも乗り、北原白秋の記念碑のある砂浜でぼんやり休憩しつつ、ぼんやり見上げると、城ヶ島大橋が偉そうに海をまたいでいました。
橋はいつ出来たんだろう? 橋が出来る前、島民はどうしていたんだろう?
三崎側の橋脚にその答えを見つけました。〈昭和35年建立〉としっかり刻んでありました。
昭和35年。1960年。橋は私と同い年でした。
橋の出来る以前の島民の暮らしについて調べてみようと思い、三浦市役所を訪ねてみました。当時はまだ木造二階建てのオンボロ庁舎でした。
窓口の人は暇そうで、私がシナリオハンティング中と伝えると、橋の建立以前には渡し船が存在していたことを教えてくれ、さらに渡し船のことをよく知っている老人の存在と住所まで教えてくれました。まだまだ個人情報の保護なんて面倒なことを考えもしない、幸せな時代でした。
城ヶ島にあるその家を訪ねてみると、温厚そうなお爺チャンが顔を出してくれ、渡し船の思い出話を語ってくれました。
多少ぼけてきているのか、同じ話を嬉しそうに何度もぐるぐると、永遠に続くかと思うほどに喋りまくってくれました。
私はというと、途中で話を切るのも悪いと思い、ずーっと相槌を打って聞いていました。聞いているうちに暗記してしまうほどでした。
何時間経ったかよく覚えていませんが、夕飯の時間が近づき、やっと話がエピローグへと進みました。
そして、お爺チャンが満足そうな笑顔を見せてくれた頃にはもう、私の頭のなかでは新作のストーリー構成が完了していました。
タイトルは『心の扉』。
自閉症は〈心の扉を閉じた状態〉では決してない、という私個人の主張を反語的に題名にしてみたつもりでした。
脚本のデータはパソコンの保存フォルダの奥に残っていて、こちらもあらためて読み直してみました。
ストーリー的には、今の『ぼくうみ』と一緒なのですが、一点だけ大きく違う点がありました。ワンボックスを運転者が自閉症の青年の方だったのです。
当時はまだヒロキが3歳になったばかり。障害の程度が重いのか軽いのかもわからなかった頃。本当の意味での青年期の自閉症特性などまったく理解出来ておらず、ストーリー展開優先で創作しまくっていたことが脚本の中から読み取れます。
この作品を私は、NHKのテレビドラマの懸賞募集に送ってみました。ちなみに、本名ではなく、嫁サンの名前で応募しました。なんせ私、既にシナリオ作家協会の会員で、選考される方ではなく、選考する側の立場だったもので……。この一件が、後日問題を引き起こすのですが、そのエピソードはまあ後日にでも、ということで。
運良く入選でもしてくれていれば、ちゃんとドラマ化されて、それで私の目標は達成されていたのでしょうけど。
残念ながら最終選考の手前で落選してしまいました。ちなみに、そのとき入選してドラマ化された作品は、面白くもなんともない駄作でした。
その後の私は、障害児の遊び場「フリースペースつくしんぼ」を1996年に開設し、本業を〈脚本〉から〈福祉〉に移行し、自閉症作品の映像化は結局諦めてしまいました。胃潰瘍と闘ってばかりの脚本家業より施設の運営の方が気楽で楽しかったからかも知れません。
それでもつくしんぼを始めて4年、無事に補助金も貰えるようになり、運営自体がある程度水平飛行に入ると、もともと飽き性の私です。
毎日毎日が障害児と遊んでいるだけの日々の連続のうえ、当時の保護者達と大喧嘩したこともあり、つくづく施設の継続が嫌になってしまいました。幸いにも、他の福祉施設の代表の方々や町田おやじの会の仲間達に説得されるようなかたちで続けることにはなりましたが……。
2001年の正月から3ヶ月間、ピンチヒッターに妻が活動に入ってくれ、私は小説執筆に専念させて貰いました。脚本ではなく小説を選んだのは、もはや脚本家には戻れないことを確信していたからだと思います。
休む期間としてこの時期を選んだのには理由があります。各種小説の懸賞募集の締切日が3月末日だったからです。脚本の懸賞募集への応募には「?」がつきましたが、小説であれば何の問題もありません。私はすばる文学賞に狙いを絞って執筆しました。
集中すると、もともと私は速筆型です。出来はともかく、早くて安いから仕事があった便利屋タイプの脚本家でした。小説は2ヶ月もかからず書き終わりました。
脱稿した小説には、やはり『心の扉』というタイトルをつけ、既に時代小説家として活躍している大学時代の先輩に読んで頂きました。私に手塚プロダクションを紹介してくれた恩人です。
「悪いこと言わん。このネタは捨てて全部書き直した方がいいと思う」
その感想に愕然としました。作品の出来には結構自信あったので、褒められるとばかり思っていたのに……。
ただ、わかったことがありました。この小説は広く一般には通用しないということ。
でも、私には確信がありました。この小説は自閉症関係者、福祉関係者にはきっと受け入れて貰える、と。
私の目標は小説家になることではありませんでした。この小説を原作にして、映像化に持っていくことでした。
結局私はすばる文学賞への応募をやめ、ぶどう社の市毛研一郎さんに読んで貰うことにしました。「ウチでは小説は出版しないことにしている」と言いつつも、市毛さん原稿を受け取ってくれました。
不安のなか、市毛さんからの返答を何日待ったか、よく覚えていません。とても長く感じたことだけは覚えています。
現役小説家である先輩からの感想を待っているとき以上に不安でした。だって、市毛さんに断られるということは、『心の扉』という小説は一般に通用しないだけでなく、福祉関係者にも通用しないということなのですから。
ところが市毛さんからの電話の第一声は、意外なものでした。
「これ、ウチなんかから出していいのかなあ……」
ぶどう社なんかから出すのはもったいない、と言ってくれたのです。もっと大きな出版社から出した方が売れる、と。
私は思わず、ぶどう社から出したい、と応えていました。
「ただ、タイトルがなあ……」
『心の扉』では印象度が弱い、とのことでした。
愛着のあるタイトルでしたが、積極的に推す気にもなれず、いろいろと考え、アイディアを出してみました。
その中から市毛さんが選んだのが、作品中の主人公の心の声の中にあった『ぼくはうみがみたくなりました』でした。
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