#22 自主上映会

 最初、この文章を書き始めた頃は、ロードショー終了までの経過・経緯を書き記すつもりいました。
 理由はというと、上映会での講演を断るようになったからです。
 なぜ断るようになったかというと、私自身の体調不良が原因です。
 それで、私が喋る内容を文字にしておいて読んで貰えたらいいなと思って書き始めたのが、この文章でした。
 「やましたひろきくんの置き手紙」というタイトルは、書いている途中につけたものです。
 ただ、ここまで書いて来て、自主上映会について触れないとどうにも中途半端な気がして……。
 というわけで、延長戦、続きます。

 

 さて……。
 私はとにかく秋が苦手でした。
 なぜなのか原因不明のまま、頭が中がボーッと白濁して動けなくなり、倒れてしまう……。
 43歳の時に発症したTIA(一過性脳虚血発作)の後遺症なのか、はたまた男の更年期の症状なのか。
 9月から10月にかけては毎年決まって体調不良で寝込んでいました。
 でも、今年だけは倒れるわけにはいきません。
 全国での自主上映会が決まっています。
 絶対に倒れるわけにはいきません。

 

 ぼくうみは東京での単館上映のみ。
 「でも観たい!」
 そんな声に応えられるのが地方での自主上映会でした。
 一方、私の方にもどうしても自主上映会をしなければならない理由がありました。なんせ多額の借金があります。頑張って返済していかないと……。
 映画が完成した春以降、上映会を企画したいという声を全国からたくさんの頂いていました。
 「ロードショー終了後には必ず開始します」
 ずっと私はそう返答していました。

 

 毎日通った東京都写真美術館でのロードショーの終了が9月18日。
 それから休む暇もなく、上映会関係の準備作業を開始しました。
 最初の上映会は10月4日。
 東京湾をフェリーで渡り、千葉県館山市。
 プロジェクターの不調でちゃんと上映することが出来ず、私はというと依頼された講演も出来ずに機材修理に追われ……。
 ちょっと残念な上映会でしたが、実は私は、ホッとしていました。
 だって、大勢の前で独りぼっちで講演するなんて初めて。極度の緊張で震えはくるし、血圧が上がりきっていました。裏方仕事に逃げられてほんと助かりました。

 

 最初の講演は逃れられたものの、その後の依頼は断れません。
 借金返済のためです。
 下手クソながらも汗まみれになりつつも、頑張って喋りました。
 小説の中の淳一クンの心の言葉の中にある「ぼくはおしゃべりがにがてです」というのは、実は私自身のことだったりして……。
 15分程度で済むのであれば自己紹介だけで済むような感じで楽なのですけど、90分もの講演など頼まれた時は最悪。学校の先生のようにはいくはずもありません。
 幸いにも当時は障害児が通う放課後デイサービス等の制度はまだ始まっておらず、そんな時代に私自身が「フリースペースつくしんぼ」という放課後活動の先駆者的な活動をしていたため、講演時間の半分近くは映画とは関係はなく、放課後活動を始めて今日に至るまでの話で誤魔化したりもしていました。
 アンパンマンなどの脚本家を書いていた私が、長男のヒロキが自閉症だとわかり、脚本家をやめて自分の生家を解放して障害児の放課後活動を始めた……。
 「おさんぽいってもいいよぉ」の本の中で書いた内容なのですが、そんな話は珍しいのか、なんとかお茶を濁せたような気もします。

 

 2009年内。10月から12月にかけての3ヶ月間に、自主上映会と新規に決まったロードショーが33ヶ所。そのうち講演会やトークショーが23ヶ所……。
 とんでもない多忙生活が始まりました。
 ほとんど旅行に行った経験もない私が東京出発、北へ西への日本全国地方行脚のドサ回り。
 しかもロードショーが完了した今、実行委員会スタッフはまたしても私一人に逆戻り。自宅に戻れば、たった一人でのメールや電話での申し込み受注業務。DVDやらポスターやらチラシやらパンフレットやらの発送業務。DVDは12枚しか焼いて貰っていなかったので、その返却確認。そして郵便局と銀行振込での入金確認と領収書発送などの経理業務。
 さらにはホームページ内に日本地図をこれ見よがしに置いて「全都道府県での全国上映会制覇!」と声高々に営業活動。もちろん上映会終了後にはブログでの報告も必ずアップするようにしていました。
 上映会での失敗が嫌で、借金返済の最中にもかかわらず、200人規模程度までならこなせるプロジェクターや音響セットも購入し、無料貸し出しなども始めてしまいました。

 

 経験したこともない超多忙。
 毎日がひたすら追いかけられているるような日々。
 目の前の仕事をこなしていくだけで精一杯の状態。
 そのせいか、沢山お世話になったにもかかわらず、各地の上映会でお会いした方々のことやの出来事等々、実は細かいことを全然覚えていません。
 ほんと、皆さんすみません。
 って、ここで今さら言っても仕方ないことなのですけど……。
 ひとつだけ印象深く覚えているのは、私が伺った上映会では一切雨の日がなかったこと。撮影の時と同様、天気には恵まれ続けました。
 「ヒロキは天気の神様。私が訪ねる上映会では絶対に雨が降りません!」と講演の中でネタとして使ったりもしました。
 実は、1日だけ降った日はあったのですけど。その日は滋賀での上映会で、新幹線が停まりそうになるほどの大雪の日でした。
 「雪だから雨ではありません」とか言い訳したりして……。

 

 講演から講演へと回り、1週間近く家に戻らないこともありました。
 そのおかげか、苦手だった講演なのですが、何度も喋っているうちにだんだん慣れていくもいきました。
 それに、途中でふと気がついたことがありました。
 上映会を企画してくださった方々も、観客として集まって下さった皆さんも、私の話を聴くのは一度きりなのです。
 となれば、私の話が成功だったのか失敗だったのかなんて、実は誰にもわからないわけで……。
 そう思うと、だんだんとリラックスできるようになりました。

 

 講演のタイトルもいつしか「ぼくはえいががつくりたくなりました」で統一するようになりました。映画のタイトル同様、全部ひらがなです。
 講演の最初にニッポン放送でオンエアーされた番組の録音を流すというパターンもお決まりになりました。私が話すよりずっと効果的だったりしました。

 

 年末年始はさすがに上映会もお休み。暫しの休息の後、1月9日から活動再開。
 数えてみると、2010年1~5月の期間に上映会が79ヶ所。
 そのうち私の講演付きの上映会が30ヶ所。
 地方でのロードショーも8館決まりました。
 自閉症協会の全国大会での講演や国会内での議員向け上映会等、大々的なイベントも経験しました。
 そして……ついに限界が来ました。

 

 4月の半ばでした。兵庫での上映会の翌日が奈良での上映会で、さらに翌日が広島での上映会での講演予定だったのですが、全身の震えが止まらなくなり、当日ドタキャン。新大阪駅から西へではなく、東への新幹線に飛び乗りました。
 嫌な予感は、兵庫から奈良への移動中からありました。
 4月25日。JR福知山線に乗っていた私は、窓外に大勢の人々と沢山のマスコミのカメラが並んでいるのを目撃しました。
 反対側の線路脇にはテレビで見覚えのある、あの電車が突っ込んだマンションが……。
 ちょうど1年前のその日、その時間のその場所が、福知山線脱線事故の現場でした。
 ヒロキの電車との接触事故の記憶と絡み合い、フラッシュバックのようなものを感じ、あの遭遇のタイミングから私の体調は一気に悪化したような……。

 

 その直後は数ヶ所の上映会に足を運べたものの、それっきり倒れて動けなくなってしまい、いくつも講演をキャンセルさせて貰いました。
 前年の秋から頑張って無理して飛び回っていた結果、蓄積した疲労が一気に吹き出してしまったのかも知れません。
 結局1ヶ月以上寝込んでしまいました。

 

 11月にはコロムビアより念願のDVDが発売されました。プレス枚数は1500枚とのこと。
 字幕&音声ガイド入りで、福祉関係者主催の上映会ではかなり役に立ちました。一般向け発売のDVDなので本来は上映会等での使用は禁止なのですが、発売元から特別に許可を貰い、ありがたく活用させて頂くことができました。

 

 で、私はというと、倒れては復帰、また倒れては遠征を何度も何度も繰り返し……。
 それでも2010年の年末までに地方ロードショーと自主上映会は100ヶ所以上、講演は30回を数えることができました。

 

 2011年は映画完成から2回目の正月でした。生きていてくれればヒロキも20歳の成人……。
 1月半ばには、念願だった撮影地・三浦での上映会開催も叶いました。
 3月6日までの期間に上映会が20ヶ所。講演が5回。
 そして、忘れられないあの日がやって来ました……。

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