#23 東日本大震災

 脚本家だった私が、長男ヒロキが自閉症だったことを契機に障害児の放課後の遊び場「フリースペースつくしんぼ」を開設して10年。散歩の途中に線路を歩いてしまったヒロキ。壊れそうな自分の心の支えにするかのように数年前に執筆した小説「ぼくはうみがみたくなりました」の映画化に打ち込み、ロードショーを経て全国での自主上映会を開始し、今に至る……。
 上映会での講演で私は、電車事故で他界したヒロキの話を中心に話を構成していました。
 重度の自閉症児ヒロキを突然失ってしまった哀しみを強調し、その〈弔い合戦〉としての信念そのものが自閉症をテーマにした映画製作に向けての原動力だった。自閉症を伝えることを通して、ヒロキの存在を伝えたたかった。生きた証を残したかった、と。
 でも……。
 東日本大震災以降、私のこの話が出来なくなってしまいました。

 

 2011年3月11日午後2時46分。
 自宅にいた私は、大きな揺れを感じました。
 まだ揺れている最中、つくしんぼに向かうと、まだ子どもたちは1人も来所しておらず、職員2人が庭の真ん中あたりに避難していました。
 古い建物にもかかわらず、幸いつくしんぼには何の被害もありませんでした。
 ロッキー(我が家の犬)が私を追いかけて来たのか、開け放したままの玄関と門を抜けてそのまま暫し行方不明に。まもなく帰宅してくれてホッとはしたものの……。

 

 テレビの地震情報によると、震源地は東北地方。三陸沖とのこと。
 東日本大震災はマグニチュード9.0、最大震度7。日本での観測史上最大規模の地震でした。
 大津波が東日本の沿岸部を襲ったことは周知の通り。福島第一原子力発電所では非常用電源が津波を被って冷却機能を失い、原子炉建屋の爆発という最悪の状況に見舞われました。
 死者・行方不明者は2万人以上。津波の高さは30m以上。
 テレビのニュース等で被災された方々の状況が次第にわかっていくにつれ、私の中ではヒロキを失った〈あの瞬間〉がフラッシュバックするようになり、一気に体調を崩してしまいました。

 

 ヒロキの事故ではいなくなったのは自閉症児のヒロキだけでした。
 たった一人だけでした。
 私はその死を当日のうちにブログに書き込みました。
 そして葬儀後、ブログの中で映画制作を宣言しました。
 ツイッターもフェイスブックもなかった時代にもかかわらず、ブログの記事は一気に拡散され……。
 私の「ぼくうみ」の映画製作宣言は話題になり、新聞やテレビに繰り返し採り上げられ、最終的には3500万円にも達する多額のカンパ金を製作費として受け取ることが出来たのです。
 それはきっと、たぶん、香典としての金だったのではないかな思っています。
 見知らぬ大勢の方達が、ヒロキの死を悲しんでくれ、私に同情してくれました
 あの時のヒロキは唯一無二、1/1の存在でした。

 

 一方……。
 東日本大震災では失われた命は2万人以上。
 失われた一人一人の命は、ヒロキと同じひとつの命だったはずです。
 でも、2万人もの人が一度に亡くなってしまうと、そのひとつひとつの命は〈1/20000の命〉として扱われてしまっていました。

 自分が失ったのはヒロキだけでしたが、被災者の方々は違いました。
 家族の一人だけでなく家族全員を失い、さらに家も住んでいた街も何もかもを失い、残ったのは自分一人だけ……。
 そんな境遇の方達が大勢いることを、テレビでは毎日のように伝えていました。
 原発事故では放射能から逃れなくてはならず、地震での直接的な被害がないにも関わらず、家も街も、生活の全てを捨てなければならない方達が大勢いました。
 私は体調を崩しながらも、テレビの前から離れられなくなってしまい、ニュースとして届く新しい情報を追いかけ続けました。

 

 取材はというのは不思議なものです。
 悲しみの淵に追い込まれている人でも、インタビューを受けた瞬間、条件反射のように冷静の表情を店、毅然と話そうとしてしまう。
 でもそっれって、実は本当の姿ではないわけで……。
 元気で頑張っていたとしても、ある日突然に孤独感が、虚無感が、鬱の感覚が、それこそ津波のように押し寄せてくるものなんです。
 前年の福知山線脱線での事故現場と偶然遭遇した時にも体調を崩したけど、震災以降はそれとは比較にならないぐらいに、私は心と体の調子を崩してしまいました。

 

 それでも、主に西日本の方々は上映会を中止にはせずに続けてくれていて、私を講演で呼んでくださいました。
 だけど、私はもうヒロキの話はせず、自閉症の話題だけで押し通しました。同情を誘うようにヒロキの話なんてしたら、震災で亡くなった方々に申し訳ないような気がして……。
 東北地方からの連絡は一切なくなりました。
 当然だと思います。海なんか見たくない人が大勢いる。そんな場所で「ぼくはうみがみたくなりました」なんてタイトルの作品、観たいはずありません。

 

 何のために「ぼくうみ」という映画を作ったのかを、私は考え直さなければならなくなりました。
 「生きた証を残したい」なんて言葉は一切使わなくなりました。
 ヒロキの命も震災で失われた命も同じ命。なのにことさらヒロキの命だけを特別なもののようには口にしたくありませんでした。

 

 震災後、上映会の数は激減しました。2011年度中に依頼を受けた講演は6回だけでした。
 10月には近くて遠かった栃木県。宇都宮の方に呼んで頂き、ずっと目標にしていた全47都道府県での上映会開催を達成することも出来ました。

 

 明けて2012年1月。
 なんとビックリ! ニューヨークに招待されました。
 初めてのアメリカ本土上陸です。
 往復の飛行機はこれまたビックリ! エコノミーでなく、ANAのビジネスクラスに乗せて貰いました。
 上映会はニューヨーク近辺で3か所。そのうち一か所は豪雪で中止になってしまいましたが……。
 マンハッタンにあるジャパンソサエティの大ホールは満員御礼、札止め状態で、その時の様子は日本のNHKで全国ニュースとしてオンエアーされたとのこと。
 とは言っても、採り上げられた理由は「ぼくうみ」の映画としての評価とは全然関係なく、ニューヨーク証券取引所のトップの方が日本の自主製作映画を訪れたから、らしいのですが……。
 超VIPの来場の理由は、その方のお子さんが自閉症だったから、らしいです。

 

 さらに嬉しいことが続きました。
 4~5月の2ヶ月間、世界の空を飛ぶANAの国際線機内の上映のラインナップに「ぼくうみ」が載せて貰うことが出来たのです。
 ぼくうみのことなんて全然知らなかったにもかかわらず、飛行機内で観て感動してくれ、わざわざ連絡を下さった方もいました。

 

 同じ年の9月には、念願の上映権付きDVDが発売されました。
 1枚29800円にもかかわらず、数百枚が一気に売れてくれ……。
 映画制作宣言から足かけ6年、おかげさまで借金の全額を返済させて頂くことが出来ました。
 上映権付きDVDの発売以降は、自由に上映会を開催して頂けるようになり、各地での上映会情報を私が把握することもなくなりました。
 なので、講演者として時々呼ばれる上映会以外、全国でどれだけの数の上映会が開催され、何人の方々に鑑賞して頂くことが出来たのか、残念ながら数字的に把握することが出来なくなってしまいました。
 でも、いいんです。既に5万人以上の人が観て下さっているのですから。
 なによりも5000万を超える借金が全部なくなってくれたんですから……。

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